根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

河原者と天部について~その⑤ 非人と河原者の違い

 職能としての中世賤民の発生は、平安後期10~11世紀辺りである。だが「畏れ」よりも「汚穢」という面が強まってくるのは、14世紀辺りからのようだ。その少し前から、「職能の専門化」から「専門業者化」への動きが始まっている。商工民たちの源流を遡ってみると、寺社の神人・寄人や、朝廷の供御人、或いは有力家門に属していた雑人などから発展しているパターンが多い。

 当初は隷属する先へ貢納するため、生産物を集積・管理していたのが、次第に利潤を目的としたものへと変わっていく。最終的には「座」を形成し、富の蓄積に成功する者が出てくる――商人の誕生である。

 富があるものは強い。彼らは必然的に「汚穢」から逃れ、社会的階層の上昇を果たしたのである。商人だけではない。先の記事でも述べたように、日蓮が「旃陀羅」と呼んだ漁師たちも、鎌倉期までは曖昧ながらも賤民扱いされていたのだが、この時代には階級上昇を果たし賤民視されなくなっている。(とはいえ、一部賤民とされた例も残っている。石清水八幡宮に仕えていた「網引神人」がそれである。彼らは八幡宮に魚類を献上する、網引き漁師と思われる集団だったのだが、周知のとおり石清水八幡宮はヒステリックなまでに穢れに厳しかったので、これに仕える漁師らも非人とされていたものと思われる。このように、ある職種が賤民視されていたかどうかは、時代や地域によって大きな幅があった。)

 逆にこの流れに乗り遅れたものは、「汚穢」を押し付けられ、ますます階層が下降してしまう。元をたどれば、同じ職能民であった商工民と被差別民との間には、そう大きな隔たりはなかったはずだ。だが触穢思想と専門業者化による貧富の差、乱暴なまとめ方ではあるが、主にこの2つの要因によって、中世の被差別民が形成されていくことになった、ということではなかろうか。

 考えてみれば、武士などに至っては殺人を生業とする者たちである。「触穢思想」的観点から見ると、究極的に穢れた者たちになるはずだ。にもかかわらず賤民視されなかったのは、彼らが持つ武力と富が成せる業であった。

 さて河原者であるが――これは研究者によって意見が分かれているのだが――広義の意味ではともかく、狭義の意味では非人とは異なる存在であったようだ。927年に記された「延喜式」には、「濫僧(非人)と屠者(河原者)は、寺社本殿の近くの居住を禁ずる」旨が書かれた記述がある。わざわざ両者を別にして表記していることを見ると、この時代から早くも別者として認識されていた、と考えていいだろうと思われる。

 中世の河原者は(携わっている職種にもよるが)被差別民の中でも階層が低いものであったようだ。河原者は禁裏に入るのは許されなかったが、散所の者は許された、という記録が残っている。

 理由のひとつとして考えられるのは、河原者が携わっていた仕事の「穢れ」の濃さではなかろうか。穢れは水の流れによって浄化される、という考え方があったし、物理的にも汚れを洗い流すのに水の流れは必須であった。必然的に穢れの度合いが多い仕事が河原に集まってくることになる。その代表的な仕事に皮はぎがあった。

 

室町時代に成立した、七十一番職人歌合36番より。皮を鞣す河原者。

 また古来より河原は避難民が流入する場所、つまり難民キャンプとしての役割を果たしていた。戦乱、或いは飢饉によって発生した畿内の難民は、食べる術を求め、大都市である京へとなだれ込む。そうした人たちは、必然的に「不課の地」である河原へと集まってくることになる。つまり立場の弱い新参者が多かったのである。

 前記事で、ひと昔前までの被差別民の研究で「彼らは如何なる共同体や階級にも属さない、身分外身分であった」という論は、現在では否定的に見られている、と述べた。だがこうした「難民として河原に流れ着いた新参者」に関して言えば、身分外身分的な側面が強かったのではないだろうか。

 しかし受け入れる数にも限りがあるので、飢饉になると餓死した人々の遺体が河原に散乱することになる。時には、死体の山での水がせき止められるほどであった。当時はまた、嫌になるほどひんぱんに飢饉が発生したのだ。

 ただ生き抜くだけでも、なんと厳しい時代であったことか。(続く)