次に考えてみたいのは、前記事の4にあげた「円珍に対して中傷を行ったり、行跡に乱れがあること」である。実はここに円珍と円載の仲が悪くなった、直接的かつ最大の原因があるのだ。
前記事で述べたように、2人の衝撃的な再会から半年後、円珍は円載と落ち合うために越州へ行く。円載はなかなか来ず、実際に落ち合ったのは蘇州においてであり、そこから共に密教の灌頂を授かるべく長安へ向かった。
その途上の潼関の宿にて、円珍は円載より酷く罵倒されたわけだが、この争いの原因は何だったのであろうか?円珍はその原因を述べていない。だが推測することはできる。
円珍は渡唐の際、お供の僧を何人か連れてきている。その中の1人に豊智という、この年で35歳になる僧がいた。この豊智だが、実はここ潼関にて名を改めている。その新しい法名を智聡という。改名した理由について、円珍は「事の由は、之に記すこと能わず」と書いているので、彼にとって間違いなく不本意なものであったものと推測される。そして潼関の宿における2人の言い争いは、ほぼ間違いなくこれが原因と思われるのである。
なぜそれが分かるのかというと、実は改名した智聡はこの後、円珍とは別れ円載と行動を共にするからだ。つまり名を変えると同時に、師匠を変えてしまったのである。円珍は遥々日本から連れてきた弟子を、円載に取られてしまった形となるのだ。
「師匠を変える」というのは、相当な出来事である。その直接的な原因は分からないが、前兆はあった。潼関には関所があり、ここを通過するためには過所(手形)が必要なのだが、円珍一行(4人であった)に対して発給された過所は2組2枚ずつであった。これにより円珍・丁満と、智聡・的良のコンビに別れ、別行動を取ることになったのである。
この過所の発給には、円載が絡んでいたらしい。ここから先は推測なのだが、越州から遅れて出発した円載は智聡・的良と共に行動し、蘇州で円珍らと落ち合ったのではないだろうか。円珍にしてみると、円載は自分と智聡を隔離させ、蘇州までの道のりの間に弟子を誑し込んで裏切らせた、ということになるわけだ。
立ち位置が違うと、見え方も変わる。或いは智聡は円珍に対し、かねてから不満があったのかもしれない。これを機に円載の元に走っただけであって、本当の原因は円珍にあったのかもしれない。今となっては分からないが、いずれにせよ円珍は、潼関宿にて弟子を取られた怒りを爆発させたのである。著書には「一方的に罵倒された」とあるが、そうではなく互いに激しくやりあったのだろう。
この事件こそが円珍が円載を憎む、決定的な契機となったのである。その後の長安における中傷騒ぎも、2人のこうした関係性があってのことだろう。
最後に4の金に汚い点について。これはある程度、本当のことのような気がする。半僧半俗の生活を送っていた円載は、金に困っていたのではないだろうか。そもそも過去分かっているだけで2回、日本に対して送金依頼をしているのが確認できる。そういう意味では円載はしっかりしているというか、がめついところがあったのかもしれない。「5000両云々~」は大げさにしても、円珍に会った時「もしかして自分に対して、日本からの金が託されているかも」という思いがあって、そうした会話が成されたのかもしれない。
以上、円載にまつわる1~4までのスキャンダルを整理してみた。これらを客観的に分析しまとめると、おそらくこのような流れであったと思われる――以下はブログ主の想像である。
――17年ぶりに円載に会った円珍は、胸に溜まっていた「唐決」に対する不満をいきなりぶちまける。うんざりした円載は、日本語が分からないふりをして受け流す。ここからボタンの掛け違いが始まったのである。更に円載による私的な留学僧身分へのダメ出し、そして金に対する執着ぶりが、円珍の気分を害した。1か月一緒に暮らすうち、円載が妻帯し子まで成していたことを知り、かつて抱いていた敬愛の情は、軽蔑へと変わる。
学問的な面から見ると、最澄の天台教義の確立に尽力するわけでもなく、むしろそこから距離を取っているようにさえ見える。これまで無為に過ごしていたも同然ではないか。同時期に渡唐し、日本に帰ってきた円仁と比べると、何という差だろう!
そうした気持ちを抱いていたところに、よりにもよって可愛がっていた弟子が裏切って改名し、円載の元に行くという!奴がそそのかしたに違いない!許せぬ!――
円珍は「行歴抄」の元となる「在唐巡礼記」を、上記のようなテンションで書いたのではないだろうか。この書を実際に執筆したのは、日本に帰ってきてからのことであるが、書いているうちに当時のことを思い出してきて、怒りが沸々と沸き上がり、感情の赴くままに筆を走らせたのだろう。
実は円珍には、断片的だが「在唐巡礼記」とはまた別の記録が残っている。これらの初期の草案を見てみると、円載に関する記事の時系列に幾つか齟齬があるのが確認できる。「在唐巡礼記」では、円珍は出会って比較的すぐに円載の破戒ぶりを知った、という内容になっているが、実際にはそこまでの破戒行為があったわけではなさそうだ。
円珍が記した円載の数々の悪行は、後から針小棒大に膨らませた、或いは付け足されたエピソードに違いない。2人の仲が決定的に悪くなったのは、潼関の宿での一件があってからであって、その前ではない(失望はしていただろうし、ウマも合わなかっただろうが)。そうでなければ、そもそも「一緒に長安に行って灌頂を受けよう」などいう流れにならないはずだ。
真相はどうだったにせよ、天台座主になった円珍のこの書によって、円載は日本において「堕落した破戒僧」の烙印を押されてしまったわけである。
円珍と別れた後の円載は、どうなったのだろうか?855年に長安にて灌頂を受けた後の円載の人生は、かなり上向いたようである。長安において一流の文人たちと交流し、第19代皇帝・宣宗と謁見し、その帰依まで受けている(なおこの宣宗、晩年は道教に傾倒し、前皇帝・武宗と同じように丹薬を飲んで中毒死している)。
862年に高丘親王が渡唐した際には、親王一行の面倒を彼が見ている。一行が長安にて滞在した西明寺は、円載のいた寺だったのである。円載は親王の天竺行きの勅許を、第20代皇帝・懿宗(いそう)から取り付けているのにも奔走している。
南海に行く親王一行を、長安で見送ってから12年後の877年。在唐40年を超え、70を超えた年になった円載は、遂に日本への帰国を志すのである。死ぬ前に故郷を一目見たい、と思ったのであろうか。長安から去る際には、都の名士や名高い詩人たちが別離の詩を送っている。帰りの船団は、かつて円珍の弟子であった智聡も一緒であった。また船倉には、円載が在唐時に集めた万巻の経典が山と積まれていたという。
しかしながら、しばらくして日本に届いたのは「円載死す」の報せであった。船団は不幸にも嵐に遭遇、円載の乗っていた船は粉々になり、集めた経典ごと海の底へ沈んでしまったのである。この報せを日本にもたらしたのは、別の船に乗っていて危うく遭難を逃れた智聡であった。
こうして円載は生まれ故郷を目前にして、海の藻屑となってしまった。唐にて己が与えられた立ち位置で懸命に生き、数奇な運命を辿った僧の、これが最期であったのである。(終わり~次のシリーズに続く)
言わずと知れた井上靖氏による、遣唐使の鑑真招来を描いた名作。若いころに(たしか高校生だったか)一度読んだきりなのに、印象に残ったシーンを35年経った今でも、鮮明に覚えている――やはり凄い名作なのだ。劇中では(時代的にはズレているのだが)この円載をモデルにしたと思われる僧が複数出てくる。円載はあまりにも逸話が豊富すぎるので、複数の人物に分散してキャラを当てはめたものと思われる。
このシリーズの主な参考文献
・アジア仏教史 日本編1 飛鳥・奈良仏教/中村元・笹原一男・金岡秀友 編/佼成出版社
・仏教とはなにか その歴史を振り返る/大正大学仏教学科 編/大法輪閣
・日本仏教史 思想史としてのアプローチ/末木文美士 著/新潮文庫
・比べてわかる!日本の仏教宗派/永田美穂 監修/PHP研究所
・日本の仏教を築いた名僧たち/山折哲夫・大角修 編著/角川選書
・円仁 唐代中国への旅 入唐求法巡礼行記/エドウィン・O・ライシャワー 著/講談社学術文庫
・唐から見た遣唐使 混血児たちの大唐帝国/王勇 著/講談社選書メチエ
・悲運の遣唐僧 円載の数奇な生涯/佐伯有清 著/歴史文化ライブラリー63
・その他、各種論文を多数参考にした。