最澄は822年に、空海は835年に遷化する。(なお空海は死んではおらず、生死の境を超えて永遠の瞑想に入っていることになっている。高野山奥之院にいる彼のもとに、1日2回食事と着替えが届けられる、という儀式が今も行われている。)この二大巨頭の死後、2つの教団はどのように発展していったのだろうか?
まずは天台宗から。最澄の死後、彼の後継者たちは未完であった天台宗の教義の確立をせんとする。だが空海の真言宗との関係性は途絶え、これ以上の密教経典の借用は望めない。ならばいっそ、ということで改めて遣唐使の船に乗って、本場の密教を学び直しに行ったのである。倭寇の時代とは大違いで、当時の日本の航海技術は極めて低く、船はよく遭難した。また水の合わない大陸で病に倒れることも多かったから、これは文字通り命がけの行為であった。
実際に唐へ渡った代表的な最澄の弟子に、円仁(えんにん)と円珍がいる。
まず円仁だが、彼は元は道忠教団の僧であった。15歳の時に師に紹介され最澄に師事することになり、修行と学問に励む。その学力はピカ一で、最澄の代講まで任されるようになるのだ。最澄の死後、師の果しえなかった天台教学の完成を目指し、遣唐使の一員となり大陸を目指す。この時、彼は何と45歳である。
836年7月、船団は博多から大陸を目指すも嵐に遭遇、全船が酷い有様で日本に吹き戻される。翌837年7月、再び出発するもこれも嵐に阻まれ、船団は命からがら日本に戻っている。838年に3度目にしてようやく成功するが、円仁の乗った第1船は高波の中で砂洲に乗り上げての、ほぼ遭難に近い形での上陸であった。船は全損し、岸から助けに来たボートで上陸している。
こんな苦労をしてまで唐に辿り着いた円仁であったが、彼の遣唐使における資格は短期留学僧としてであった。天台山に行って天台教学を学ぶつもりであったのだが、長旅の許可が下りない。しかたないので意を決して、帰国するため北上を始めた船団から途中下船、人目を盗む形で密入国するも、怪しまれた住民の密告により失敗。その後、幸い山東省に大きな権力を持つ新羅人の大物親分の後援を得ることができ、通行許可証を入手する。こうして円仁ら一行(供を入れて4人であった)は、晴れて大陸を旅することができるようになるのだ。
だが貰った通行証では天台山には行けなかったようで、その代わり天台山に並ぶ仏教の本場・五台山へと向かうことにする。まずそこで、天台宗の懸念であった「密教と法華経の融合性」に関する、教義上の解答を得ることに成功する(また五台山ではブロッケン現象に遭遇、これを奇瑞と見て信仰を新たにする円仁であった)。更に密教の本場・長安へ向かい、大興善寺の元政和尚と青龍寺の義真から、それぞれ念願の灌頂を授かるのである。
こうして本場にて密教を学んだ円仁は、長安の絵師・王恵に6000文払って、金剛界曼荼羅を描かせたのである。東密には空海が大陸から持ち帰った曼荼羅が2つあったが、叡山はまだ持っていなかったのだ。五感で体得する密教にとって、この曼荼羅というアイテムの有無は、極めて重要な問題なのである。
その後、帰国を目指すもなかなか果たせず、苦楽を共にしていた愛弟子を失っている。幸か不幸か842年に、道教に傾倒していた武宗による仏教排撃運動、「会昌の廃仏」が始まる。そして国外追放に近い形で、帰国を果たすのであった。
円仁が持ち帰った本場の曼荼羅と大量の経典、五台山で得た天台教学と密教との融合問題の解答、そして長安で学んだ最新の密教教学。天台教学に欠けていたピースが、円仁によって遂に埋まったのであった。空海の真言宗を「東密(東寺の密教)」と呼び、対して天台宗を「台密(天台宗の密教)」と呼ぶが、堂々とこう名乗れるようになったのは、円仁のこの偉業あってのことである。
次に円珍だが、彼は何と空海の姪の息子にあたる人物である。にも関わらず高野山ではなく、比叡山に行った理由はよく分かっていない(ただ空海のことは尊敬していたようだ)。853年に大陸に渡っているが、この時、既に遣唐使は廃止されているから、正規の遣唐使ではなく新羅の商船に便乗する形での渡航であった。最も船は遭難して台湾に漂着、そこから福州に上陸しているのだが。天台山で修行した後、やはり長安の青龍寺にて密教を学び、灌頂を受けている。
本場で更に深い密教の知識を得た円珍は、帰国後に密教の専修道場として新たに園城寺(三井寺)を開く。彼により「台密」教義は更に発展し、叡山は興隆を極めることになるのだ。円珍の功績は大きかったが、彼の死後、叡山において強力な派閥が形成されることになり、以降半世紀に渡って円珍派が天台座主の座を占めることになるのだ。
だが10世紀になると、長らく逼塞を余儀なくされていた円仁派の巻き返しによって、円珍派は天台座主の座から駆逐されてしまう。円珍派は遂には延暦寺より分離、園城寺を本寺として事実上、独立してしまうのだ。以降、延暦寺は山門、園城寺は寺門と称されるようになる。
山門・寺門の争いに関しては、Wikⅰのこちらの記事がよくまとまっている。両派の争いは、藤原摂関家や朝廷をも巻き込み次第に過激化し、焼き討ち・合戦が当たり前の、血で血を争う抗争に発展していく。
天台宗はこのように、その教学がようやく完成したにも関わらず、分派してしまった。これは勿論、互いの権益を奪い合う利権争いの性格が強いのであるが、天台宗は「四宗融合」、つまりは「天台・禅・律・密教」の4つの教義が内包されていたから、つまり本質的に多様性があったためだとも見られている。円仁派と円珍派の教義上の争いは、天台宗の密教成分をどれだけ重視するか、という点にあった。
だからこそ、天台宗は発展する可能性が多かったともいえる。平安晩期ころから「鎌倉新仏教」という新しいムーブメントが起こり、日本の仏教は百花繚乱のごとき様相を示すのであるが、これらの殆どは天台宗から発展した宗派であり、教祖らもまた比叡山にて修行した僧なのである。いうなれば比叡山は、日本中世仏教の母体ともいえるのだ。井沢正彦氏曰く「真言は密教の単科大学、天台は仏教の総合大学」だそうだが、これはうまい例えだと思う。
とはいえ、権力には腐敗も伴う。経済的にも政治的にも、ここまで強大化してしまった叡山の世俗化は、避けられない道であった。円仁派の復興を成し遂げたのは、第18世天台座主に就任した良源という僧であるが、この仕事は藤原摂関家の政治的バックアップなしには成し遂げられないものであった。彼はその見返りとして、藤原師輔の10男・尋禅を己の弟子とし、次の天台座主に指名している。
以降、天台座主の世俗化が進む。第34世以降の座主は、藤原家ないしは親王がその座に就くのが慣例化するのだ。それに比例するかのように、叡山は寺社勢力の中核をなす存在として、中世を代表する一大勢力として重きを成していくのである。(続く)