根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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2022-01-01から1年間の記事一覧

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その② 千石堀城攻防戦

堺を通過して、和泉国を南下する秀吉軍。岸和田城まで来たら、近木川防衛ラインはすぐ目と鼻の先だ。軍の主力は21日の15時頃には岸和田城に到着、16時には千石堀城の目前まで迫っている。 秀吉軍は到着するや否や、千石堀城にいきなり攻めかかった。攻…

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その① 近木川防衛ライン

※このシリーズでは「秀吉の紀州侵攻」、そして「中世根来寺の滅亡」を取り上げる。ここに至るまでの経緯は、下記リンク先「根来と雑賀」シリーズを参照のこと。 諸般の事情で延び延びになっていた、紀州征伐。だが秀吉は、1585年に遂に紀州に対する本格…

根来と雑賀~その⑧ 紀泉連合軍の大阪侵攻 岸和田合戦と小牧の役

85年3月、信雄の秀吉派三家老粛清を機に、羽柴と織田&徳川の両陣営は臨戦態勢に入った。領地の大きさでは秀吉に比するべくもない織田&徳川は、紀泉連合との連携を試みる。 話は飛ぶが根来滅亡後、生き残った根来衆の一部は「根来組」として家康に召し抱…

根来と雑賀~その⑦ 土橋一族の逆襲、そして根来・雑賀連合結成へ

本能寺にて信長、横死す――この報せは、あっと言う間に雑賀に伝わった。 先の政変で壊滅的な打撃を受けていた土橋派は、しかし未だ強い勢力を保持していたようで、この報せを受け即座に決起する。まず4か月前のクーデターで、土橋若太夫を裏切った土橋兵太夫…

根来と雑賀~その⑥ 根来vs雑賀 ラウンド3 雑賀の内戦に参加した泉識坊快厳

先の信長の雑賀攻めにて、侵入者を惣国内に引き入れた宮郷・中郷・南郷の三組。ところが思惑と異なり、信長は大した戦果のないまま兵を引き上げてしまう。梯子を外されてしまった格好のこの三組に対して、十ケ郷・雑賀庄の二組が巻き返しを狙う。 1557年…

根来と雑賀~その⑤ 根来vs雑賀 ラウンド2 信長による雑賀侵攻と、その先導を務めた杉乃坊(下)

山手から攻め寄せる織田軍3万は、佐久間・羽柴・堀・荒木・別所らの諸軍で構成されていた。その先頭に立つのは杉乃坊、そして雑賀三郷の者どもだ。 この山手勢は雄ノ山峠を越え、田井ノ瀬で紀ノ川を渡河し、焼き討ちと略奪を重ねながら、2月24日頃には小…

根来と雑賀~その④ 根来vs雑賀 ラウンド2 信長による雑賀侵攻と、その先導を務めた杉乃坊(上)

前記事で紹介したように、岸和田合戦で信長は散々痛い目にあわされる。戦線が崩壊するどころか、危うく自分まで討たれるところであったのだ。 本願寺の武力の担い手は雑賀である。ならばその本拠地を叩くべし――そう考えた信長は、1577年2月に10万とも…

根来と雑賀~その③ 根来vs雑賀 ラウンド1 天王寺合戦(下)

信長は石山本願寺を包囲する形で各所に砦を築いて、じわじわと本陣に迫っていく。だが本願寺は海岸線に大小いくつもの砦を構築しており、浜手から本陣へと続く地域を確保していた。この海からの補給路を潰さない限りは、本願寺は弱体化しない。海岸線にある…

根来と雑賀~その② 根来vs雑賀 ラウンド1 天王寺合戦(上)

先の記事での紹介した通り、雑賀衆も根来衆も傭兵稼業に従事していたから、戦場において敵味方に分かれて殺し合いをすることは、珍しいことではなかった。ただ源左衛門の記録を見る限りではその殆どは、小規模な集団同士での局地戦であったようだ。 では根来…

根来と雑賀~その① 時に敵、時に味方 その奇妙な関係性

根来寺と雑賀惣国は、すぐ隣同士にある間柄だ。昔に書かれた戦国時代の本を読むと、根来衆と雑賀衆は1セットとして括られることもよくあった。どちらが有名かというと、残念ながら?雑賀衆の方が有名で、根来衆はそれに付随して語られる存在になりがちであ…

根来衆と鉄砲~その⑨ 佐武源左衛門の10の鉄砲傷

おなじみ慶誓こと、佐武源左衛門も鉄砲の名手だった。彼が根来衆であった時期は短く、戦歴の殆どは雑賀衆としてのものなのだが、参考までに「佐武伊賀守働書」に記された彼の武勇伝を見ていこう。自ら記したこの記録によると、生涯で彼が参加した戦いの数は…

根来衆と鉄砲~その⑧ 根来の鉄砲隊を率いた男たち 行来左京(おくさきょう)と小密茶(こみつちゃ)

根来の鉄砲隊といえば、やはり杉乃坊だ。そもそも種子島から火縄銃を持ち込んだのが杉乃坊算長で、津田流砲術という日本初の鉄砲術の流派を起こすくらいだから、当たり前と言えば当たり前なのであるが。この津田流をさらに発展させたのが、彼の子であり兄の…

根来衆と鉄砲~その⑦ 鉄製大砲の鋳造に成功した、凄腕の職人・増田安次郎

戦国から、いきなり幕末の話になってしまった・・・すぐに話が逸れるのが、著者の悪い癖である。この記事では本筋と少し離れて、その後の日本の鉄砲と、特に大砲の技術的変遷について述べてみたいと思う。 江戸期に入ると幕府によって鉄砲と大砲の生産は規制…

根来衆と鉄砲~その⑥ 難航した大砲の国産化と、その理由

鉄砲に比べ、大砲の国産化の方は難航している。大友氏が小型青銅砲の製造を行っていたようだが、銅はとにかく高価であったから、製造コストが非常に高くつく。代わりに安価な鉄で大砲を鋳造する、というのが世界的な代替手段なわけだが、日本においては難し…

根来衆と鉄砲~その⑤ そして鉄砲大国へ・・・日本に鉄砲は何丁あったのか?

日本人はあっという間に鉄砲の生産技術を習得、世界有数の鉄砲保有国になってしまう。戦国期の日本は、どれくらい鉄砲を有していたのだろうか? もちろん統計なぞないから、推測するしかない。まず時代が経てば経つほど鉄砲普及率は上がっていくはずだ。戦国…

根来衆と鉄砲~その④ 火縄銃の国産化と、その運用を支えた貿易体制

複数のルートで、日本各地に伝播した火縄銃。前記事でも触れた通り、日本の鍛冶屋は日本刀によって培われた鍛鉄技術に秀でていたから、すぐに技術を習得、各地で鉄砲生産が始まった。国産の第一号が造られたのは、種子島である。関の出身であった鍛冶師・八…

根来衆と鉄砲~その③ 薩摩の海賊に奪われた鉄砲の謎と、とっぽどん殺人事件

明が残した記録に、非常に興味深い内容のものがある。前回の記事で、薩摩からの船が捕まった話を紹介したが、その1か月後の48年4月に別の密貿易業者・方三橋という男の船が、同じように双嶼付近で明軍に捕まっているのだ。 その記録によると、押収したこ…

根来衆と鉄砲~その② 鉄砲は日本にいつ、どこに伝来したのか

鉄砲は日本にいつ、どこに伝来したのか。 一般にも知られている鉄砲伝来のストーリーとしては、1542年、ないし43年に種子島に到着した中国人倭寇、王直の船に乗っていたポルトガル商人から、当主の種子島時堯(ときたか)が鉄砲を入手。うち1丁が津田監…

根来衆と鉄砲~その① 鉄砲と大砲 その開発の歴史

根来と言えば、隣の雑賀と並んで鉄砲隊が有名である。戦国期に根来寺がここまで勢力を伸ばせたのは、間違いなくこの新兵器の威力によるものが大きい。このシリーズでは、根来衆と鉄砲に関わる歴史を見ていこうと思う。 そもそも鉄砲、とは何か。辞典には「銃…

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑨ 倭寇による国造り・台湾王国樹立とその滅亡

オランダ勢力を駆逐して、台湾を手に入れた鄭成功はさらに南方、スペイン人の占領するフィリピンに目を向ける。彼の旗下にいたイタリア人修道士をマニラに遣わし貢納を要求した、という記録が残っている。これは現地のスペイン人に、ちょっとした恐慌を巻き…

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑧ 倭寇vsオランダ ゼーランディア城攻防戦

当時の台湾はオランダの勢力下にあった。その拠点は台南のゼーランディア城にあり、支城として近くにプロヴィンシア城があった。鄭芝龍が明の高官であった30年~40年ほど前、鄭一族とオランダは矛を交えた時期もあったが、概ね商売上のよき取引相手であ…

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑦ 倭寇から明の忠臣になった男・鄭成功

長きに渡って倭寇を紹介してきたこのシリーズも、ようやく終わりに近づいてきた。最後はトリを飾るのに相応しい男の登場である。 1625年。鄭芝龍という男がいた。福建省出身の彼は、故郷の閩南(びんなん)語の他、南京官話、ポルトガル語、オランダ語など…

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑥ 日本人町と鎖国

東南アジア各地には、イスラム教徒や現地勢力が築いた小規模な王国が幾つかあったが、16世紀初頭からポルトガル人やスペイン人ら西欧勢が交易網の結節点に町を形成、こうした周辺の小王国を滅ぼして植民地化を進めていった。ポルトガルの拠点はマラッカで…

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑤ 東南アジアにおける日本人傭兵たち

サイヤ人ばりに戦闘能力が高かった戦国期の日本人は、傭兵としての需要も大きかった。最も有名なのは、タイの傭兵隊長・山田長政であるが、他にも例は幾らでもある。1579年にタイのアユタヤ王朝がビルマとラオス連合軍に侵略された際には、500人の日…

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その④ 海外に売られていった日本人奴隷(下)

アジアにおける奴隷貿易は、如何ほど儲かったのだろうか?1609年に人さらいに騙されて、マカオで船に乗せられ、マニラにて売りに出された中国人の少年少女たちの史料が残っている。それによると、誘拐犯からの仕入れ値は1人につき10パルダオ、マニラ…

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その③ 海外に売られていった日本人奴隷(上)

ここで一回、倭寇から離れて当時の日本人奴隷について見ていきたい。16世紀から17世紀にかけて、大勢の日本人が東南アジアのみならず、インドや中南米にまで移住している。パターンとしては、これまで見てきたように、まずは貿易に関わる商人として。次…

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その② 流れ流れて、幾千里。倭寇の親分になった「大夫様」

日本人が頭目であった倭寇集団もあった。最も有名なのがルソン島・カガヤンを縄張りとする「タイ・フーサ」として知られている日本人が率いていた倭寇集団である。1582年に、この倭寇集団とスペインとの間で「カガヤンの戦い」が行われている。 この「タ…

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その① 海賊王を目指した林鳳

後期倭寇の最盛期は1550年代だが、その数を減らしながらも活動自体は引き続き続いていく。これまで前期倭寇と後期倭寇を紹介してきたが、後期倭寇のうち万暦年間の始まり、1573年あたりからの倭寇を「第三期倭寇」と呼ぶ学者もいる。「晩期倭寇」と…

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑩ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(下)

こうして全ての邪魔者を始末した徐海は、8月1日に手勢を率いて官憲に降伏する。はじめ胡宗憲はこれを手厚くもてなしたという。帰順した徐海一党には、適当な居留地が与えられることになり、8日に沈家荘という地に入る。東側に徐海一党が、川を挟んだ西側…

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑨ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(中)

暴風でいきなりケチがついたとはいえ、依然もの凄い数である。何しろ最終的に浙江省を中心に暴れまわった倭寇の数は、2万と伝えられているのだ。いちどきに出航したわけではなく、幾つもの船団に別れ、三々五々日本を発ったので嵐に遭わずに済んだ船団もい…