根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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根来と雑賀~その⑧ 紀泉連合軍の大阪侵攻 岸和田合戦と小牧の役

 85年3月、信雄の秀吉派三家老粛清を機に、羽柴と織田&徳川の両陣営は臨戦態勢に入った。領地の大きさでは秀吉に比するべくもない織田&徳川は、紀泉連合との連携を試みる。

 話は飛ぶが根来滅亡後、生き残った根来衆の一部は「根来組」として家康に召し抱えられることになる。そんな根来組が、自らの出自由来を記した「根来惣由緒書」という書物がある。書かれたのは江戸期も後半に入ってからの1811年なのであるが、この「由緒書」によると「小牧の役」の際、「秀吉より味方するよう使いが来たが返答しなかったが、権現様(家康)からの使者(井上正就)が持ってきた手紙には、我らを頼るという内容が書かれていのでこれを受け、西国より攻め上がる秀吉の軍勢を大阪表に防ぐため、大阪城に出陣、云々」旨が書いてある。まるで根来衆は家康の要請に従って決起したようなことになっているのだ。

 だがこれは後年になって、この時の根来組と徳川家の縁起を、箔付けのため殊更に強調したもののようである。使者が来たのは事実のようだが、当時の根来衆にしてみれば大身とはいえ家康は単なる一地方の大名で、同盟者以上の存在ではなかった。根来衆の当時の記録には「家康」と呼び捨てにしたものも残っているのだ。

 実際に紀泉連合との細かい交渉事に当たったのは、織田信雄重臣であった佐久間信栄(のぶひで)だったようだ。彼は信長に追放された重臣佐久間信盛の息子であり、あの「天王寺合戦」にも参加している男である。父の死後、許されて織田信雄の家臣となっていた彼は、追放期間中は紀州寒川に住んでいた。また近くの保田庄には、彼の親族にあたる保田安政(猛将・佐久間盛政の弟。保田家に養子に入っていた)の一族がいたのだ。そうした伝手を評価され、紀泉連合との折衝を任されていたようである。

 ともあれ強力な同盟者を得て、これを好機と見た紀泉連合は早速、和泉に軍を差し向けることになる。同じ反秀吉連合の一員である四国の長宗我部勢も、連携して海から攻めてくれることになった。後年「岸和田合戦」と呼ばれる戦いの始まりである。

 まず3月18日、2手に別れた紀泉連合は海陸から進撃する。海からは長曾我部旗下の管氏の水軍が、大津城まで攻め寄せた。陸路を行く紀州勢は岸和田城下まで迫る。実はこの前日の17日には、小牧方面に進出してきた徳川軍の先陣と、羽柴側の森長可軍との間で既に戦闘が開始されている。徳川軍と雌雄を決すべく大坂から出陣しようとしていた秀吉は、出兵を延期せざるを得なかった。

 兵力で劣る中村一氏岸和田城から出撃せず、籠城策をとった。紀泉勢はこれを包囲する。19日と20日は雨が降ったので、合戦は行われなかったようだ。鉄砲を多数持っていた紀泉勢が、火縄が濡れるのを嫌ったためであろう。雨が上がった翌21日になって、雑賀の土橋兄弟が指揮を執る4~5000の兵が岸和田城に攻めかかった。更に長宗我部水軍(130隻)と連携した紀泉勢の別動隊が、陸路で堺まで進撃した。

 紀泉連合の攻勢は、なおも続く。22日には建設途上の大阪城を焼き討ちせんと、軍勢の先手が大阪城下の天王寺にまで達したようだ(あの「天王寺合戦」の舞台となった地である)。実際、城下町には火がつけられ火災が発生している。小牧方面が気になる秀吉は、その前日の21日には大阪を出発していたのだが、報せを聞いて慌てて軍を返している。最終的には紀泉連合の攻勢は頓挫し、目的を達することなく退却したのであるが、秀吉は肝を冷やしたはずである。

 しかし紀泉連合は結局、岸和田城を落とせなかった。後年に編纂された戦記物「常山紀談」では、中村一氏勢の大活躍により紀州勢が大敗した、という筋書きになっている。だが実際には、大阪城在番衆の黒田長政生駒親正らが奮戦したようである。その証拠に両名は「(紀州勢の)首を数多打ち捕らえ、比類なし」とのことで、岸和田合戦の功として恩賞2千石が与えられているのだ。

 中村一氏が直接的な褒賞に預かったという記録はない(残っていないだけかもしれないが)。だがどちらかというと、消極的な戦い方のせいで大阪まで攻め込まれたということで、評価を落としたのではないだろうか。紀州征伐がすべて終わった後、一氏は栄転と言う形で近江水口6万石の大名として国替えになるのだが、2年間に渡って和泉の最前線で奮闘した割には、加増額は約3万石と少めである。

 いずれにせよ、紀泉連合があきらめて一旦兵を引いたのを確認した秀吉本隊は、ようやく小牧へと軍を進めることができた。25日に岐阜に到着、27日に前線最寄りの犬山城へと入城している。しかしそこで秀吉が目にしたのは、土塁を築きがっちりと守りを固めた徳川軍であった。小牧において、堅牢な野戦陣地を構築されてしまっていたのである。

 「山﨑の戦い」や「賤ケ岳の戦い」で見られるように、戦さにおける秀吉の持ち味は軍団の迅速な移動、そしてそこからの急襲である。想像以上のスピードで襲い掛かってくる秀吉軍相手に、敵は不利な体勢で迎撃せざるを得ず、秀吉はこの方法で何回も敵を撃破してきた。だがこの戦いにおいては、紀泉連合を相手に小競り合いを続けている間、貴重な時を稼がれてしまったので、その手法は取れなかったのであった。

 代わりに秀吉は強引な手を取らざるを得ず、分遣隊を迂回させて敵陣後方に中入りさせるという、大胆だが無謀な策に出る。4月9日に行われたこの「長久手の戦い」において秀吉は賭けに負けて、局地的大敗を喫するのだ。

 

豊田市郷土資料館所蔵「長久手合戦屏風図」。この中入り策は池田恒興森長可が献策した、ということになっているが、実際には秀吉がやる気で両者はその意を受けて進めていた、というのが真相のようだ。ちなみに両者ともこの戦いで敗死してしまっている。

 短期決戦の思惑は外れ、戦いは長期戦に入る。対陣は8ケ月にも及んだのだ。千日手ともいえる状況の中、三者ともそれぞれ問題を抱えていた。まず信雄は領地である伊勢・美濃の居城を秀吉にことごとく落とされてしまい(佐久間信栄の蟹江城も落城、尾張に逃亡している)、真っ先に音を上げてしまう。勝ち目はないと判断した信雄は、同盟者である家康に一言もないまま、11月15日に秀吉と単独講和を結んでしまうのだ。驚くべき見勝手さである。

 残された家康は、厳しい立場に追い込まれる。実のところ、予想以上に長引いた戦役の負担は家康の肩に重くのしかかっており、領国では荒廃が見られはじめていた。長雨による洪水にも祟られ、飢饉が発生していたようである。富と人的資源という点では、しょせんは田舎大名であった家康は、中央を制していた秀吉には遠く及ばなかった。戦費は既に底を尽き、徳川家の財政は破綻寸前だったのである。

 だが秀吉にしてみても、お膝元の畿内をこれ以上、放っておくわけにもいかない事情があった。紀泉連合がしつこく和泉で蠢動していて、その対応のためもあって、秀吉は6月21日~7月18日、7月29日~8月15日、10月6日~10月25日と戦場を離れ、大阪城に帰還せざるを得なかったのである。まずはこの五月蠅い紀泉の連中を何とかせねばならぬ。こうして家康とも、講和と相成ったのであった。

 家康の生涯はピンチの連続なのであるが、この「小牧の役」の際も相当危なかった。彼がこの戦役を何とか引き分けに持ち込めたのは、勿論「長久手の戦い」における大勝利あってのことなのだが、これをうまくアシストしたのは、根来・雑賀を中心とする紀泉連合だったのである。(終わり~次のシリーズに続く)

 

<参考文献>

田尻町史 歴史編/田尻町史編纂委員会/田尻町

顕如:信長も恐れた「本願寺」宗主の実像/金龍静 木越祐鑿 編/宮帯出版社

・戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆鈴木眞哉 著/平凡社新書

・鉄砲と日本人/鈴木眞哉 著/ちくま学芸文庫

・雑賀一向一揆紀伊真宗/武内善信 著/法蔵館

真宗教団の構造と地域社会/大阪真宗研究会 編/清文堂

・戦国期畿内の政治社会構造/小山靖憲 編/和泉書院

・豊臣政権の形成過程と大阪城中村博司 著/和泉書院

・和泉戦記/中井保 著/泉州出版社

根来寺衆徒と維新時代の吾が祖/古川武雄 著

和歌山市雑賀地方史―6世紀から平成12年まで―/松田文夫 著

・信長・秀吉の紀州攻め史料/松田文夫 著

・その他、各種学術論文を参考にした