五山の禅僧には、宗教活動を行う「西班衆」と、寺院の経理や荘園の管理を担う職能集団の「東班衆」がいたことが分かっている。これはどんな宗派の寺院も一緒なのだが、巨大な寺院群を運営していく以上、このように役割を分担せざるを得ないのである。
例えば旧仏教の一員である根来寺のケースを見てみよう。これまでの記事でさんざん紹介済みだが、根来寺には上級僧侶である「学侶方」と、下級僧侶である「行人方」がいた。そして両者の間には、はっきりとした身分の差があったのである。下級僧である行人は、あくまでも学侶僧の修業を補助する存在であり、学侶僧が参加する法会などには参加する資格はなかった。(最も時代が下っていくと、行人方が富と武力を得ることにより徐々にパワーバランスが崩れ、一種の逆転現象が起こるのだが)
禅寺には「生産活動は修業の一環」という考え方があったから、東西の班の間で身分的な差はなかったようだ。事実、初期の禅僧たちは西班衆と東班衆を6か月ごと、交代で務めていたのである。
このように両班の人事は互いに交流するもの、と定められていたのだが、室町期に入ると分業化が進んでいったようだ。ただ禅寺における修行の主体は職能とは関係ない座禅と公案であったし、両者の政治的対立もないわけではなかったが、そこまで強いものではなかった。前記事で述べたように、禅寺は財政面で室町幕府を支える必要があったから、経済を司る役割は特に重要視されていた、という面もあるかもしれない。
それが具体的に分かる例として、中世禅宗の専門家である川本慎自氏の著作「中世禅宗の儒学学習と科学知識」が大変面白く、その内容を一部紹介してみたい。川本氏によると、禅宗寺院では「講義」がよく行われていたのだが、この講義においては仏典以外のテキストがよく使用されていたとのことである。具体的には「論語」「周易」「史記」などの漢籍などであり、西班衆・東班衆の区別なくこれを受講できた。
「史記」の中の医師の伝記に関する講義では、治療の様子や方法を詳細に解説し、五蔵六腑の位置を図解している。これはつまり医術の授業に近いのであり、禅宗寺院では優れた医師を何人も輩出しているのである。
杜甫の詩の講義では、田園風景を詠んだ詩の解説として、赤米の産地や琵琶湖畔の水田の様子にまで話がおよぶ。「周易」の講義では、易占の前提として算木を使った計算のやり方を、初歩から丁寧に解説している。こうした農業知識や計算方法を学ぶことは寺領の生産性の向上につながるし、また建築・造園分野にも役立つものであった。
仏の教えに関係ない、こうした実学が体系だって教えられていたのが禅寺の特徴といえる。「生きるうえでの全てを修業」と捉える、こうした禅宗らしさの実学重視の姿勢はまた、数多くの文化を生み出す元となったのだ。
例えば詩文。詩文の世界において禅寺の果たした役割は大きく、これを「五山文学」と呼ぶ。ただしここでいう詩文は、あくまでも漢詩のことを指す。現在の日本では、まるきり廃れてしまった感のある漢詩であるが、室町期のこの五山文学を経て、江戸晩期から明治にかけて、頂点を迎えることになるのだ(明治期の文化人は、みな漢詩を嗜んでいる)。
また前の記事でも触れたが、禅寺は日本の建築・庭園文化に大きな影響を及ぼしている。現在日本において見ることのできる名園は、禅寺のものが多い。特に言及しておかなければならないのは、枯山水式庭園だろう。
そもそも枯山水とは、当初は池のある庭園の庭石を組んだ部分や、砂が敷いてある道などを指す言葉であり、様式というよりは単なる手法のことを指していた。しかし次第にその部分が発達し、水を使用せずに山水を表現する庭園様式が成立した。これが枯山水式庭園で、日本が世界に誇る独自の庭園様式なのである。

山水河原者に関しては、上記リンク先の記事を参照のこと。善阿弥の孫であった又四郎は、代々作庭に関わっていた、プロフェッショナルな一族であった。
枯山水の主役は岩と砂であったから、その質が極めて重要であった。京近郊では白川の砂が有名であったが、備後産の砂も有名であったそうである。備後砂についてはブログ主がよくお世話になっている、上記のリンク先で知った。
なにゆえ禅寺にこのような建築・庭園文化が発達したのかというと、禅宗では修業する上で「境致(きょうち)」というものを重視していたからである。これは「禅院内外の建造物や自然物を、禅宗的な観点で評価する」という意味の言葉なのである。
禅の修行では師との間で、直観を重視した公案による問答が行われる。公案は論理を超えつつ、即興で対応しなければならず、いきおい周辺の景観が問答の中に取り上げられてくることが多くなる。そこで庭園文化が発達したわけである。このような禅宗の文化から生まれたのが、秀逸な景観に対して十境や八景を設定する風習であり、以後日本全国に広まっていくことになる。「山口十境」や「近江八景」など、こうした冠を戴いた景勝地は今でも各地で見ることができる。
このように禅僧は、身近にあるあらゆるものに象徴的な名辞をつけ、境致を設定する癖があるのだ。同じ文脈で掛け軸に使用される水墨画もまた、日本の禅寺において発達した芸術分野のひとつである。水墨画の描き手は、絵仏師や禅僧がメインであった。(続く)


時代が下ると、水墨画のテーマは必ずしも仏関連に限られたものではなくなってくる。いわゆる花鳥画や山水画である。そして15世紀後半には、雪舟という偉大な水墨画家が登場するのだ。上記画像は雪舟の有名作にして、国宝の「秋冬山水図」。

せっかくなので他の作品も。国宝「天橋立図」。縦89.4cm×横168.5cmという、ほぼ畳一畳分の大作である。日本三景の一つである天橋立を東側から描いたものだが、画中にある2つの寺院の存在から、描かれた年代は1501年~06年の間に推定されている。逆算すると、この時なんと雪舟は80歳を越えているはずなのである。実際に現地に赴かなければ描けないはずで、80を過ぎてこんな大作を描くとは、超人的な人物である。