根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

室町期の仏教について~その⑤ 禅寺の興亡 その制度と文化(下)

 次に禅寺における生活スタイルを見てみよう。禅僧たちは、基本的には僧房において集団生活を行っていた。彼らを率いるのは、既に悟りの境地にいる(はずの)師匠である。師と共に生活し、その一挙手一投足に注目し、そこから何らかの意味を見出すべく日々坐禅し、公案に挑むのである。大寺院であれば数百人規模の禅僧たちが、一堂に会して生活していたわけである。

 とはいえ時代が下るにつれ、五山における禅風に変化が起きてくる。まずは禅の密教化である。初期臨済宗の特徴は兼修禅であったから、必ずしも密教を否定する立場にはなかった。禅僧の中には伝法灌頂を受けるものなどもいたのである。しかしその場合でも、密教はあくまでも禅と並列して学ぶべき宗派であり、それぞれの教義は別々のものとして学んでいたのである。

 しかしこの頃になると、旧仏教から数多くの僧が転派してきたこともあり、禅の教義自体が他宗の教えと混合してくるようになる。具体的には加持祈祷などの仏式儀式の導入であり、次第に密教成分多めの禅――癒合禅とでもいうべき状態へと体質が変化してくるのだ。

 更にこのうえ、浄土思想まで混淆してくる。東福寺南禅寺の住持を務めた雲章一慶などのように、他力本願的思想のもと、禅寺にて南無阿弥陀仏を唱える僧なども出てくるようになるのであった。

 こうした禅浄一致の精神が分かりやすく可視化されたのが、足利義政の建てた銀閣寺である。禅的世界を表現した書院造で建てられている、あまりにも有名なあの建物は、実のところ浄土信仰の観点から建設された「観音殿」なのである。同境内にある東求堂もまた同じで、蓮池の前に建てられ阿弥陀仏を安置した「阿弥陀堂」なのであるが、要するに極楽浄土を表現しているのである。

 

浄土思想についてはこちらの記事を参照。確実に浄土に往くためには、死ぬ直前に浄土をイメージする必要がある。それを助けるため、地上に浄土を再現するのである。

 

 このように禅的要素が薄まってしまった五山において、学問は解放されたものでなく、口伝で伝えていく因習的なものに転化してしまう(その代替として、詩文が発達することになるのである)。それに伴い五山内に閉鎖的な派閥が幾つも乱立するようになる。そして禅僧たちは、それぞれの派閥の本拠となる山内の塔頭に暮らすようになっていく。要するに派閥のボスの下に少数の弟子たちが集まって、そこで暮らすわけであり、仏事供養などの時だけ僧堂に集合し、集団生活の態を成すわけである。

 あの夢窓が開基した天龍寺でさえも、1400年前後には既にそのような状態であったらしく、五山文学の作品の中にもそうした記述がみられる。4月から7月にかけて行う禅の修業に「一夏安居」というものがあるが、その期間中ですら100人位は入れる僧堂に7~8人しか座禅していない、と嘆いているのだ。

 中央にある五山派がそうした体たらくであったから、志のある禅僧は悟りの道を他に求めざるを得なかった。野にある大小の門派(こうした在野的禅寺を「林下」と呼ぶ)はまだ集団生活の名残をとどめており、本来の禅的な世界観を維持していたから、禅の理想を見出さんと林下に下野する僧たちもまた多かったのである。

 こうした林下の中で、最大のものは大徳寺派であった。これらの中では、師を求めて歴参するような古き良き伝統がまだ保たれていたのである。あの一休さんこと一休宗純は、若いころに京十刹のひとつであった安国寺を飛び出し、良き師を求めて遍歴した結果、最終的にこの大徳寺にたどり着いている。大徳寺は五山では失われてしまった禅風を継ぐものとして、大いに栄えたのであった。

 この大徳寺派が日本の文化面で貢献した分野は、茶道である。茶道黎明期の名人として、一休の弟子である村田珠光の名が挙げられる。それまでの茶会は、出された茶の産地を当てる「利き茶」のような遊戯的要素が強いイベントであり、時には飲酒や博打なども催されていたのだが、そうした行為を禁止し禅の精神を基調とした四畳半の大きさの茶室を造ったのが、この珠光であった。

 

茶室にかける掛け軸のことを「茶がけ」と呼ぶが、大徳寺住持の墨蹟のものが重宝された。これを「大徳寺もの」と呼ぶことから分かるように、大徳寺派が茶道に与えた影響は極めて大きいのである。画像はYahooオークションに出品されている「大徳寺もの」。検索すると分かるが、大量に安価で出品されている(本物かどうかは不明)。大徳寺513世にして第13代管長・中村祖順氏の作品とのことで、調べてみたら1982年に亡くなられた方であった。つまり現代でも、大徳寺の住持は「大徳寺もの」を生産し続けているということになる。

 

 「林下」には、この大徳寺派の他にも、妙心寺派や幻住派などがある。特に妙心寺派は、地方においては大徳寺派よりも大きな勢力を誇った臨済宗派閥で、戦国大名や国衆に留まらず、連歌師などの芸能人や町衆・医者・農民・職人らなどからも幅広い信者を得ていた。

 しかしこの妙心寺派が躍進した理由は、実のところ民衆にとってウケのよかった祈祷や葬式仏事を盛んに行ったからであった。そのためには各地の土俗信仰も比較的容易に受け入れざるを得なかったから、本来持っていた禅の修行面がおざなりになってしまった面もある。

 例えば、禅問答の答えを密々に伝える、虎の巻である「密参録」のようなテキストが口伝として伝授されるようになる。これは要するに、「このような公案に対してはこのような答え、相手がこう返してきたらこのようなロジックで返せ」という公案の参考書なのである。公案自体が型にはまったものとなり、内容も衒学的なものに堕してしまったのであった。

 このような状態に陥ってしまったのは妙心寺に限らず、在野の禅寺である他の林下も同じことで、室町も後期になると林下も五山とそう変わりなくなってしまったわけである。近世初頭の妙心寺では、禅修行の根本道場である僧堂が存在しなかったほどであった。

 そして応仁の乱が発生する――戦国時代の始まりである。この乱で五山は壊滅的な被害を受けてしまうのだ。特に京が戦乱の舞台になってしまったことは痛手で、東班衆の基盤である貸銭業が難しくなってしまった。また各地では守護大名の力が強まって五山の荘園管理が難しくなり、関所の自由通過権なども失われてしまう。東班衆の去った荘園では、守護大名が国人に管理させる守護請が多くなるのである。荘園支配の終わりの始まりで、これが戦国大名の台頭につながっていくのである。

 臨在宗、特に五山は室町幕府と結びつくことで、その勢力を拡大していったわけであるが、幕府権力の衰退とともにその勢力が弱まってしまうのは避けられないことであったのだ。

 それでも幾つかの林下は地方の戦国大名の庇護を受け、その地において発展することになる。武田家の恵林寺や、今川家の臨済寺(共に妙心寺派)などが有名である。先に紹介した茶道を始め、詩文・和歌・建築・庭園・水墨画など禅宗の教養文化は、そうしたものを求めていた戦国大名たちに受け継がれていくことになるのだ。(続く)