根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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2025-01-01から1年間の記事一覧

本願寺の興亡・信長死闘編~その① 本願寺のプリンス・顕如

旅行記+αが、思ったより長くなってしまいました。まさか13記事まで伸びるとは・・・それにしても旅行に行くと、世界が深まっていいですね。本で読むのと実際に行ってみるのとでは、情報の質が違います。頭の中だけではなく、肌感覚で理解できるというか・…

旅行記~その22 北陸旅行記・猫の町・井波瑞泉寺に立ち寄る

2025年夏の旅行記(もう年末ですが)、今回の記事で最後になります。 五箇山に前後して、井波・瑞泉寺も訪れました。瑞泉寺は越中における本願寺の要といえる寺でその歴史は古く、1390年に本願寺第5世・綽如(しゃくにょ)によって開基された寺にな…

旅行記~その21 北陸旅行記・五箇山 美男流人・タツノスケ

合掌造り家屋で営まれていた大家族生活は、これまでの記事で見てきたように、五箇山の生計を支える産業に適した形態だったといえます。特に養蚕に関しては、多くの人出を必要としました。 こうした家には、嫁いでいかなかった家付きの女たち、要するに小姑た…

旅行記~その⑳ 北陸旅行記・五箇山 加賀藩の最高軍事機密・「土硝法」とは

五箇山における塩硝製造ですが、これには誰もが関われたわけでなく、ある条件を満たすものだけが参加できました。具体的には、それなりに大きな家屋を持つ世帯のみです。理由はシンプルで、「古土法」から進化した、この「土硝法(培養法とも)」では、養蚕…

旅行記~その⑲ 北陸旅行記・五箇山 生活を支えた三大産業「製紙・養蚕・塩硝製造」

五箇山の歴史は比較的新しく、南北朝あたりまでしか遡れません。もちろんそれ以前から人は住んでいたのですが(縄文時代の遺跡が至る所にあります)、公的な政治体制のもとに、はっきりと組み入れられたと確認できるのが、その辺りということになります。 ど…

旅行記~その⑱ 北陸旅行記・五箇山 その厳しい共同生活

江戸期の五箇山の生活は、相当厳しいものでした。 そもそも五箇山は、深い峡谷沿いに点在する集落の集合体です。まとまった平地がほとんどなく、稲作ができません。猫の額ほどの耕作可能な土地で作られていたのは、主に粟・稗などの雑穀類でした。 この辺り…

旅行記~その⑰ 北陸旅行記・流刑地だった秘境・五箇山

春日山城の旅行記だけで8記事になってしまいした・・・城そのものの紹介というよりも、「苧麻」と「御館の乱」についての内容でしたが。 しかし、まだ旅行記は続くのです。もう少しだけお付き合いいただければ。 本当はこの後、糸魚川のヒスイ海岸に行って…

旅行記~その⑯ 北陸旅行記 「御館の乱」終焉も、深い傷を負った上杉家

北条勢による坂戸城攻略は失敗し、成すことなく関東に軍を返してしまいます。景虎にしてみれば、これで来年の雪解けまでは援軍の期待はできなくなったのです。状況はようやくにして、景勝に有利になりました。 10月24日、勢いに乗った景勝勢は春日山城か…

旅行記~その⑮ 北陸旅行記 春日山城での死闘と、形勢逆転を狙う景勝

御館(おたて)において6000の兵を集めた景虎。一方の景勝は城を占拠したはいいものの多勢に無勢、撃って出ることができません。 5月17日、景虎勢は遂に春日山城に向けて進撃を始めます。大将である桃井伊豆守率いる軍勢は全く抵抗を受けることなく、…

旅行記~その⑭ 北陸旅行記 景勝 vs 景虎 それぞれについた上杉家中らの思惑

1578年5月、ついに両者の間で戦端が開かれます。上杉家は景勝派と景虎派に真っ二つに割れ、国中で争い始めたのでした。 上杉家中の武将たちや越後の国衆らは、何を拠り所にしてそれぞれの陣営に味方したのでしょうか。双方の陣容を見てみましょう。 ま…

旅行記~その⑬ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 「御館の乱」が勃発した理由とは?

1578年3月9日に倒れた謙信は、意識が戻らないまま4日後の13日に死亡してしまいました。謙信は前年の9月23日に「手取川の戦い」で織田家の北陸方面軍を率いる柴田勝家を撃破しています。今年は雪解けを待って新たに軍を起こし、上洛ないしは関東…

旅行記~その⑫ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 謙信が考えていた、後継ぎ構想とは?

北条家が無断で武田家と和睦したことを聞いた謙信は激怒、氏政に手切れの一礼を送りつけました。 その怒りたるや凄まじく、同盟破棄の5年後の1576年のことになりますが、将軍・足利義昭が(彼の生きがいである)第三次信長包囲網を更に強化するために、…

旅行記~その⑪ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 機能せず短命に終わった「越相同盟」

1569年6月に結ばれた、上杉・北条両家による「越相同盟」。これに伴い、翌70年に北条三郎は越後入りします。以後、三郎は上杉景虎として春日山城・三の丸に屋敷を構え、謙信の後継者として遇されることになります。 ブログ主撮影、春日山城・三の丸。…

旅行記~その⑩ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 上杉家のお家騒動「御館(おたて)の乱」に至るまで

リアルが忙しく、なかなか更新できなくなってしまいました。いましばらく旅行記が続くので、お付き合いいただければ。話を春日山城に戻します。 登城ルートを辿っていくと、本城部分に到達します。まずは三の丸です。三の丸→二の丸→本丸と段々畑のような配置…

旅行記~その⑨ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城と苧麻(下)

前記事で少し触れましたが、謙信は1559年に上洛した際、皇室・公家・幕府要人に特産品である「越布」を惜しげもなく配りまくっています。商品価値を高めるためのプロモーションを兼ねていたという説もあり、越布のいい宣伝になったものと思われます。 そ…

旅行記~その⑧ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城と苧麻(上)

この猛暑の中、先日(2025年8月中旬)北陸に旅行に行ってきました。東京から新幹線で上越市に入り、現地でレンタカーを借りての旅行です。幾つか趣深い史跡を回れたので、紹介したいと思います。 まずは第一回、春日山城になります。上杉家の居城であり…

当ブログ開設3周年 解説と分析 

ブログを開設してから3年2か月が経ちました。本来ならば7月にUPしたかったのですが、シリーズ途中だったもので、ひと段落したところで記事をUPした次第です。 なんとまあ、4年目です。とりあえず始めてみたブログですが、現時点で記事数が247記事…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑲ 金沢御堂の設置と、妥協しつつも加賀の統制強化を進める証如

なかなか門主の言うことを聞かない、加賀門徒たち。石山本願寺が別心衆(つまり本願寺の敵)と認定した大物門徒・洲崎らの討伐を命じても「笛吹けど踊らず」で、加賀門徒らはなかなか動かないのであった。 これは何故かというと、別心衆認定といってもそこに…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑱ 力をつける加賀一揆の大物ら、その処遇に苦労する石山本願寺

1535年11月、畿内全域を巻き込んだ3年にわたる戦役――「天文の錯乱」がようやく終わった。本願寺としては負けに等しい内容の和睦条件であったが、証如自身も戦さに心底ウンザリしていたのだろう、彼の治世後半において本願寺が戦さに主体的に関わるこ…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑰ 主戦派の暴走、そして粛清された下間兄弟

1534年3月、下間頼盛によって拉致されてしまった門主・証如。拉致された先、河内国・榎並において証如は頼盛に「細川晴元と結んだ和睦を破棄し、再び戦うよう」と説得されるのである。 そして証如は(状況的に仕方ないことであるが)、説き伏せられてし…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑯ 法華一揆 vs 一向一揆 炎上する山科本願寺

1532年7月29日、京に突如出現した法華一揆。これに危機感を覚えていたのが、京から山ひとつだけ隔てただけの位置にある山科本願寺である。一向一揆の主力は堺攻めのため出撃していたので、本部である山科とは分断されてしまった形となる。 本願寺も座…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑮ 暴走する一向一揆 コントロールに苦慮する本願寺

奈良、つまり大和国は興福寺の力が非常に強い国である。その影響力の強さ故、幕府が守護を置くことができなかったほどで、大和の武士たちも衆徒として興福寺に組み込まれていた。 戦国期に入ると流石に往年の力は落ちてきて、衆徒らの中から「大和四家」と言…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑭ 「天文の錯乱」にて一揆勢の陣頭にたち、自ら指揮をとる門主・証如

激戦の末、加賀の三箇寺を下した超勝寺&本覚寺。彼らのバックにいるのは山科本願寺であるが、この時の門主・証如はまだ若年の16歳である。加賀三箇寺を滅ぼすまでの絵図は、彼の祖父・筆頭後見人である蓮淳が全て描いたものであった――その動機は多分に私…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑬ 加賀三箇寺の滅亡 ルサンチマンを晴らした蓮淳

1531年8月22日、孝景率いる朝倉勢8300は越前から加賀・江沼郡に侵攻、現地で光教寺勢と合流し、北上を続ける。超勝寺・本覚寺勢はこれに抗し得ず、手取川のラインまで撤退せざるを得ない。大河を天然の掘に見立て、北岸で食い止めようとしたのだ…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑫ 加賀三箇寺 vs 超勝寺・本覚寺の死闘「享禄の錯乱」

そもそも越前にあった超勝寺・本覚寺だが、その歴史は古く、隣国・加賀においても多くの門末を抱えており、特に白山山麓にある山之内庄に門徒が多かった。この山之内門徒衆は、加賀一向一揆の中でも精強を以て知られた集団で、その頭目は二曲(ふとげ)城を…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑪ 「今まで冷遇されていた僕が門主の筆頭後見役になったので、これまで馬鹿にしていたやつらをざまぁ!します」の巻

まだ幼い証如の補佐として成立した、「題名の五子」制度。この5人の中で、実績・影響力共に突出していたのは、北陸における最高司令官・蓮悟であった――実如が亡くなるまでは。 1519年に実如によって定められた、「一門一家制度」のルールをもう一度確認…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑩ 「このうらみ、はらさでおくべきか」ルサンチマンの塊・蓮淳という男

実如が指名した「題名の五子」の、5人中3人は「百姓の持ちたる国」加賀から選ばれた、いわゆる「加賀三箇寺(さんかじ)」の住持であり、実如の弟たちでもある。この加賀三箇寺であるが、そもそも如何にして成立してどのように発展していったのか、その経…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑨ 攻勢から守勢にまわる本願寺、そして実如の死

1506年・永正三年の一向一揆は、概ね失敗に終わった。特に越前における敗退は痛手で、朝倉氏によって一向宗は爾後禁制とされたし、聖地・吉崎御坊も焼き払われてしまった。 朝倉氏は門徒たちの財産を全没収のうえ国外追放、加賀との国境は陸のみならず海…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑧ 越前朝倉氏との死闘「九頭竜川の戦い」

北陸の本願寺の要・吉崎御坊は越前の国、加賀との国境にある。蓮如がこの地に降り立って以来(そして去った後も)、吉崎御坊は北陸の本願寺門徒たちの聖地であり続けた。門徒たちにしてみれば、この聖地がある越前を加賀のような「百姓の持ちたる国」にしよ…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑦ 「永正三年の大乱」能登・越中を席巻する一向一揆

1506年、実如の呼びかけにより一斉に蜂起した一向一揆。近畿近国一円がこの争いに巻き込まれることになるが、主戦場は何といっても北陸である。 北陸における一揆を指導したのは、本泉寺の蓮悟(蓮如第7男・実如の実弟)だ。大本営にあたる山科本願寺に…