根来戦記の世界

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本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑫ 加賀三箇寺 vs 超勝寺・本覚寺の死闘「享禄の錯乱」

 そもそも越前にあった超勝寺・本覚寺だが、その歴史は古く、隣国・加賀においても多くの門末を抱えており、特に白山山麓にある山之内庄に門徒が多かった。この山之内門徒衆は、加賀一向一揆の中でも精強を以て知られた集団で、その頭目は二曲(ふとげ)城を拠点とする、土豪山之内京進である。

 蓮悟ら「加賀三箇寺」の挙兵を知った超勝寺・本覚寺勢は、山之内庄に立てこもることにする。幸いここは山に囲まれた谷間なので、守るに有利な地勢なのだ。

 対する三箇寺勢は、これまた有力国人であった洲崎氏・河合氏らの加勢を得て山之内庄を攻撃する。

 

まず両軍は「長嶺で戦った」とあるが、この長嶺は山之内庄を囲む尾根筋のことだと思われる。正確な場所が分からないので、上記の戦闘場所はあくまでイメージであるが、このように各地から侵入しようとして撃退されたものと思われる。

 

 しかし超勝寺・本覚寺勢の守りは固く、三箇寺勢は防衛ラインを抜くことができない。そこで山之内庄の出入り口を固めて封鎖することにするのだが、これは悪手であった。

 そもそも三箇寺勢は、細川高国の摂津攻撃に連動する形で蜂起している。超勝寺・本覚寺のバックにいる黒幕は、蓮淳が牛耳っている山科本願寺であったから、彼らの敵である高国が畿内で暴れている間は動けまい、と見て挙兵したわけである。

 しかし6月4日、その肝心の高国が「中嶋の戦い」において三好元長に大敗してしまうのだ。敗因は与党・赤松政祐の裏切りであった。高国はその場を逃れ大物(だいもつ)城を目指すが、赤松勢に先回りされてしまう。そこで尼崎の京屋という藍染屋に逃げ込んで、藍瓶の中に隠れていたところを見つかってしまい、広徳寺にて自刃させられてしまうのであった。この事件を「大物崩れ」と呼ぶ。

 そもそも「同盟軍勝利ありき」の戦争など始めるべきではなかったのだが、時すでに遅し、これで山科本願寺はフリーハンドとなってしまう。蓮淳は早速、本願寺門主の証如の名において、畿内・東海の門徒らに大規模な動員をかけたのである。

 6月末、山科本願寺にて出陣の旗揚げ式が行われた。総大将は下間頼秀の舎弟・下間頼盛。集まったのは、主に三河尾張・近江など各地からの門徒であったが、中でも特筆すべきは三河からやってきた軍勢である。彼らは土呂本宗寺・実円が送り出した門徒たちなのである。

 過去の記事で紹介したが、実円は証如の叔父にあたる人物で「題名の五子」のひとりだ。門主の数少ない三等親であり、血の濃さという点においては蓮淳に次ぐ地位にあるといえる。その実円が住持を務める土呂本宗寺の参戦は、軍勢の正統性を担保する意味で重要なのである。

 「潮目が変わった」と判断した超勝寺実顕は山科からの援軍を待たず、独力でとある作戦を決行する。光谷峠を密かに通って、波佐谷松岡寺を攻撃したのだ。7月上旬に行われたこの奇襲攻撃は大成功し、寺は全焼、蓮鋼(既に隠居していた)・蓮慶・実慶の親子三代をはじめとする、一族10余名を捕らえることに成功するのである。

 

超勝寺・本覚寺勢が使用した光谷峠を通るルートは、松岡寺も先の攻撃時には使用したはずであるが、あっけなく侵入されてしまっている。裏切り者による手引きがあったのかもしれない。

 

 この時、実顕が危険を冒して独力で奇襲をかけたのは、松岡寺・実慶に嫁いでいた女性が彼の娘であったためと見られている。この奇襲により実顕は人質である娘の奪還に成功したのみならず、三箇寺の一角を成す松岡寺を滅ぼしてしまうという、望外の勝利を挙げたのであった。

 続いて下間頼盛が大部隊を率いて、飛騨経由で加賀に侵攻してくる。飛騨では内ヶ嶋氏などの飛騨門徒が新たに加わったうえ、これまで中立を保っていた白山本宮まで山科本願寺につく始末。三箇寺勢の戦線は崩壊し、7月29日には蓮悟の若松本泉寺があっけなく陥落してしまう。

 

飛騨より侵入してきた大軍に抗すべくもなく、若松本泉寺は坊舎・寺内町をことごとく焼き払われ、陥落してしまう。蓮悟は一族と共に、能登守護・畠山義統を頼って府中に亡命する。三箇寺サイドであった(名前だけの)加賀守護・富樫氏や、河合・洲崎などの有力国人衆たちも、それぞれ能登越中に逃げて浪人となった。

 

 こうして超勝寺・本覚寺勢は、北加賀を制圧した。残るは南加賀にある山田光教寺である。ここを一気に押し潰さんと、超勝寺・本覚寺勢は7000余騎とも号する大軍を以て、南下をはじめる。光教寺顕誓は何とか3000余騎の軍勢をかき集め、月津口の地において山手・中央・海岸の三手に分けて陣をひき、これを迎え討ったのである。

 超勝寺・本覚寺勢は、餓狼のようにこれに襲いかかった。多勢に無勢、戦う前から既に勝敗は決していた――と思いきや、まさかまさかの大逆転!光教寺勢は自軍の倍以上ある超勝寺・本覚寺勢を打ち破るのである。

 この戦いで大活躍したのが、光教寺勢の国人・黒瀬覚道(かくどう)である。覚道率いる黒瀬党は、激戦の最中に超勝寺実顕の舎弟・勧帰寺超玄が率いる一手を包囲し、その首を取るという大手柄を立てるのだ。超勝寺・本覚寺勢は700余の被害を出して、敗走する。

 

まさかの逆転勝利。戦役の帰趨はほぼ決したと思われていたが、この戦いにより振り出しに戻るどころか、超勝寺・本覚寺勢は大ピンチに陥るのである。なお光教寺のあった江沼郡の有力国人として、黒瀬覚道・福田ノ竹太夫・柴山・一針らの名が挙げられるが、特に黒瀬覚道は古強者で、永正3年の越前攻めの際には「九頭竜川の戦い」にも参陣している。

 

 この逆転勝利によって一息つけた光教寺は、越前朝倉氏に援軍を求めたのである。

 朝倉孝景(信長に滅ぼされることになる、あの義景の父である)にしてみれば、本願寺は敵ではあるが、その中でも越前にいた超勝寺・本覚寺は最も憎むべき宿敵である。九頭竜川の戦いにおいて「獅子心中の虫」である彼らをようやく追い出したのに、また越前に戻ってこられたら、堪らないのである。

 最悪の敵を倒すため、小悪の敵と組むことにした孝景は、8月19日にまず堀江景忠を将とした300騎を先手として送りこむ。そして3日後の22日には、自ら8000の本隊を率いて、加賀・江沼郡に侵入するのである。

 一方、能登に逃げた三箇寺勢であるが、畠山義統の後援を得ることに成功する。義統の第2子・家俊を総大将として、遊佐・神保・温井ら越中勢と共に、加賀・河北郡井上庄に集結し始めるのである。

 形勢は逆転、今度は超勝寺・本覚寺勢が南北より挟撃される形になってしまうのだ。(続く)