根来戦記の世界

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本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑬ 加賀三箇寺の滅亡 ルサンチマンを晴らした蓮淳

 1531年8月22日、孝景率いる朝倉勢8300は越前から加賀・江沼郡に侵攻、現地で光教寺勢と合流し、北上を続ける。超勝寺・本覚寺勢はこれに抗し得ず、手取川のラインまで撤退せざるを得ない。大河を天然の掘に見立て、北岸で食い止めようとしたのだ。

 しかし10月27日には朝倉勢の先遣隊が手取川を渡河、北岸にいた超勝寺・本覚寺勢と一戦交え、700~800人を討ち取るという戦果をあげ、ここでも大勝するのだ。

 朝倉勢は更に番田・士室・藤塚など、北岸一帯の諸村に火をつけるなどして暴れまわる。だが天候が急変したこともあり、渡河していた部隊を一旦、南岸に引き上げさせることにする。大河である手取川が増水してしまうと、いざという時に引けなくなってしまうのだ。

 また孝景としては、部隊の一部をここから東行させ、三坂峠を越え超勝寺・本覚寺勢の本拠地である山之内庄を攻めるという、二正面作戦も視野に入れていたようだ。

 更に北の能登からは、畠山家秀を総大将に据えた三箇寺の残党に遊佐・神保・温井ら越中勢を加えた能登畠山勢が迫っていた。超勝寺・本覚寺勢は南北から挟まれ、本拠地・山之内庄は孤立するというピンチに追い込まれていた。

 

南北から追い詰められた形の超勝寺・本覚寺勢であるが、この時点での総兵力は6000を切っていたと思われる。対する朝倉勢は8000超、畠山勢の兵力は不明だが、これにも兵を割かなければならないだろうから、手取川で朝倉勢に相対する超勝寺・本覚寺勢は多くても5000ほどだったのではないだろうか。

 

 加えて孝景は、超勝寺・本覚寺勢内に調略を仕掛けていたようだ。そしてそれはある程度まで、成功していたのである。

 内通者は本覚寺の門末にして有力国人のひとり、石川郡の玄任次郎右衛門である。実は彼の両親を過去記事で既に紹介済みである。これより24年前、1507年8月に越前にて行われた「帝釈堂口の戦い」で一党300人を率いて参陣するも、逃げずに踏みとどまって全滅してしまい、討たれてしまった「玄任」が彼の父である。

 そしてその亡妻である彼の母は、自身に法話じみたことを説いてくる本覚寺の坊主に対して「言いつけを守って最後まで逃げずに戦った夫は今頃は極楽でしょうが、真っ先に逃げた御坊は間違いなく地獄行きですね」と答えたという、エピソードを持つ人物である。

 

「帝釈堂口の戦い」については、こちらのリンク先の記事を参照。

 

 次郎右衛門が実際に内通しようとしていたか分からないが、そうしたエピソードが残っているくらいだから、和田本覚寺とは色々と確執があったのかもしれない。いずれにせよ超勝寺・本覚寺勢にしてみれば、いつ転んでもおかしくない勢力を内部に抱えているわけで、この時点でほぼ絶望的な状況だったのである。情勢を逆転させるためには、相当思い切った手段を必要とした。

 翌28日は予想通り大雨となり、手取川の渡河は不可能となる。増水したことで朝倉勢の攻撃を受ける心配がなくなった超勝寺・本覚寺勢は、これを機に玄任党にいきなり不意打ちをかけるのである。これに気づいた孝景は慌てて700~800の足軽を渡河させんと試みるが、渡河に手間取っているうちに玄任党は敗走してしまうのだ。

 

超勝寺・本覚寺勢は陣内にいた玄任党を粛清するという、思い切った手段を取る。対陣していた朝倉勢は、玄任党が襲われているのを見て慌てて手取川を渡河しようとするが、大雨による増水により手間取っている間に玄任党は壊滅してしまう。なお、天文年間に織田家と戦った本願寺の坊官に「杉浦玄任」という高名な武将がいるが、この玄任党とは無関係なようである。

 

 これで内応される心配はなくなった。豪雨により手取川の水もひかないから、朝倉勢は引き続き動けない。超勝寺・本覚寺勢は主力を急遽北上させ、畠山勢と相対する。この時、戦闘前に討ち取った玄任党の首を並べて士気を削いだ、とあるが、どこまで本当だろうか?いずれにしても10月29日、超勝寺・本覚寺勢は畠山勢に攻めかかり、これを徹底的に打ち破ってしまうのだ。

 

超勝寺・本覚寺勢は、増水した手取川を越えることができない朝倉勢を尻目に、北上して畠山勢に襲い掛かる。細かい記録が残っていないので、戦いの帰趨は分からないのだが、とにかく一方的な戦いであったようだ。総大将の畠山家俊をはじめ、遊佐・神保・温井らの諸将、河合・洲崎ら有力国人の多くが討ち取られ、軍勢は散り散りになってしまうのである。それにしても、朝倉勢に比べると畠山勢の弱さが際立つ。寄せ集めの連合軍だったからだろうか。

 

 畠山勢の手ひどい敗戦によって、朝倉勢も動揺し士気が落ちてしまう。孝景もこれ以上の侵攻を諦めて、越前に撤退せざるを得なかった。

 最後に残った山田光教寺も、朝倉氏の力がなくては、山科をバックに持つ超勝寺・本覚寺勢には勝つことはできない。加賀を諦め、孝景にそのまま同行する形で越前に亡命することになる。

 こうして加賀を長く支配していた三箇寺は、全て駆逐されてしまうのであった。

 蓮悟を始めとする4兄弟は、長い時間をかけて加賀の本願寺化に尽力した。高田派、三門徒派を始めとする他宗派や、信心よりも現世利益を求めて門徒化した者たちを、時には叱責、時には妥協するなど飴と鞭を使い分け、根気よく手なずけてきた。彼らの努力あって、加賀は「百姓の持ちたる国」になったのである。

 その三箇寺を「もはや用なし」とばかりに滅ぼしてしまった、筆頭後見役の蓮淳。しかも相手は自分の兄弟たちである。兄弟たちのひとり、既に隠居していた蓮鋼は松岡寺が陥落した際に捕まっていたが、10月18日に幽閉先で死亡している。82歳であった。

 悲劇は続く。残された一門、蓮鋼の長男・蓮慶(49歳)、その子・実慶(29歳)、4男・慶助(22歳)は1か月後の11月18日、幽閉先より越前を目指して脱走する。しかし追っ手に捕まり、全員が自害してしまうのだ(実際には殺害されてしまったものと思われる)。実慶の妻は超勝寺実顕の娘であるから、実顕は娘婿を死に追いやったことになる。

 何とか能登に逃げのびた本泉寺の蓮悟、そして越前に亡命した光教寺の顕誓であるが、両名とそれに付き従う者たちに対し「本願寺に対する反逆者」として、とどめの破門処置が下される。また暗殺指令も出されたようだ。

 身の危険を感じた蓮悟は能登から越前に逃亡、時衆の寺・長崎称念寺に身を潜める。だが能登に残された彼の妻・如了は1532年1月に不慮の死を遂げているし、嫡男の実教も翌33年7月に毒殺されてしまっている。蓮悟自身は更に堺まで落ちのび、1543年7月16日に76歳で独り寂しく死去している。

 こうして蓮淳は血肉を分けた兄弟・甥たちを追放、或いは殺害し、己が抱えていたルサンチマンを存分に晴らしたのであった。

 だが教団内における混乱はこれで終わりではなかった。粛清の幕は、まだ開いたばかりだったのである。(続く)