北陸の本願寺の要・吉崎御坊は越前の国、加賀との国境にある。蓮如がこの地に降り立って以来(そして去った後も)、吉崎御坊は北陸の本願寺門徒たちの聖地であり続けた。門徒たちにしてみれば、この聖地がある越前を加賀のような「百姓の持ちたる国」にしようと考えるのは、当然の動きであった。つまり越前は、かなり初期の段階から一向一揆の攻撃目標となっていたのである。
越前における大きな一向一揆は、これまで2回発生している。1回目は「明応の政変」直後、1494年10月に越前から追われた甲斐氏残党と連動して行われたものだ。2回目は1504年8月に、朝倉氏を出奔した朝倉元景と結んで行われたものである。いずれも加賀からの侵攻であり、朝倉勢に撃退されてしまっている。
そして3回目となる今回の侵攻こそ、空前絶後のものであったのだ。南は近江から「上口勢」が、そして北は加賀から「下口勢」が、南北から越前を挟撃する形で侵攻したのである。
この朝倉氏と本願寺が死闘を繰り広げた「九頭竜川の戦い」と、そこに至るまでの一連の経緯は、辻川達雄氏による著作「本願寺と一向一揆」「蓮如と七人の息子」などに詳しい。以下、辻川氏の著作の内容に沿った形で、戦いが如何に進んでいったのか見てみよう。
まず1506年4月に実如の指示により、摂津・天王寺と近江・顕証寺の門徒を主力とする一揆勢約300が近江北部の海津付近に集結した。南から侵入を伺うこの本願寺「上口勢」に対して、朝倉勢は七里半越えの隘路を利用して、防戦の構えを見せる。古来より近江と越前をつなぐ峠道は総延長七里半(約30km)にも及び、守るに有利・攻めるに不利な地形なのである。
余談ではあるが、越前から近江に至るまでのこの峠道に、運河を通す試みがなされている。日本海から琵琶湖まで水路をつなぎ、輸送量の増大を図る野心的な計画である。その一部は、江戸後期に「疋田舟川」として実現した。詳細については上記の記事を参照。
しかしこちらは陽動であって、主力は加賀・能登・越中の門徒たちからなる「下口勢」なのである。これら本隊が越前に侵入せんと、加越国境に続々と集結を始めていた。更にこれに呼応して越前国内に潜んでいた門徒たちも、吉崎御坊を中心に蜂起する。「朝倉始末記」によると、その数はなんと総勢30万にも達した、とある。
30万という数字は明らかに誇張されたものであるが、相当な大軍であったのは間違いない。いずれにしてもこの大軍は7月17日に国境を越え、朝倉氏の本拠地である一乗谷目指して南下をはじめたのである。
なお7月14日に山科本願寺に滞在していた細川政元が、北陸に向けて出立しようとして将軍・義澄に押しとどめられる、という事件が複数の記録に残っている。どうも実如に焚きつけられて、自ら戦いの陣頭指揮を執らんと、越前に向かおうとしたようである。政元と本願寺教団がこの戦いにかけていた意気込みは、相当なものであったことがわかる。
対する朝倉家の当主である朝倉貞景は国内の兵を根こそぎ動員、一族の重鎮である朝倉宗滴に軍を預け総大将とした。
宗滴は一揆勢の侵入を食い止めるため国境まで軍を進めるようなことはせず、一揆勢をあえて国内まで引き込むことにする。九頭竜川南岸を天然の堀に見立て、1万1000の兵を川に沿って布陣して、迎え撃つ策にでたのだ。
この時、本願寺の宿敵である高田派門徒たちが、別に3000の兵を率いて朝倉勢に加わっている。ここ越前国は高田派にとっては、北陸に唯一残された楽園なのだ。ここまで本願寺に獲られてしまったら、北陸における高田派は壊滅間違いなしであったから、彼らも必死なのである。
以下、戦いの経緯を図入りで紹介してみよう。
両軍対陣図。「朝倉始末記」に書かれている通りの兵数を記してはいるが、一揆側の実数はこれよりはるかに下、恐らくは十分の一程度であったのではなかろうか。10万を越える軍の編成・動員は現実的ではなく、日本において確実に実現したと立証できるのは、秀吉の小田原攻め以降である。当時の日本の道路事情と輸送力では、大軍を維持するための兵站が持たないのだ。とはいえ十分の一の3万でも、朝倉方の3倍あるので大軍には違いない。それぞれの一揆勢には代表的なリーダーや、主力を構成する寺の名を明記してある。例えば一揆の大物・洲崎入道であるが、彼は加賀の石川郡米泉に、細川政元も滞在したことがある館を構えており、河北郡から石川郡にかけて多くの所領を持っていた。もはや小大名といってもいいクラスの国人なのである。しかしながら一揆勢は多数の勢力から成る連合軍であり、そういう意味では指揮系統は絶対的なものではなく、統率力という点では朝倉勢に劣っていたと思われる。
8月2日、まず河合藤八郎らが率いる一揆勢が「中角の渡し」を渡河、朝倉勢に襲い掛かった。しかし攻撃は撃退され、リーダー格の河合藤八郎・山本円正入道らが討ち取られてしまう。ほぼ同タイミングで安養寺・瑞泉寺勢が高木口を攻める。一揆勢は筏を組んで渡河を試みるも、朝倉勢は対岸に要害を組んでいたため、これも阻まれた。最上流の鳴鹿口では急流であったために渡河できず、互いに矢を射かける矢戦のみで終始している。構図としては数に勝る一揆側が攻めて、朝倉側が防戦する構えである。
しばし膠着状態が続く。しかし8月6日、中央に布陣する宗滴の本陣が動いたのである。早朝、まだ日が明けきらないうちに宗滴は3000の兵を渡河させ、魚鱗の陣でそのまま敵陣に襲い掛かったのだ。まさか攻勢に出るとは思っておらず、不意を突かれた形の一揆勢は敗走してしまう。戦線の中央が崩れたことで、各地の一揆勢はパニック状態となり総崩れとなった。
この戦いで一揆勢は大ダメージを食らい、戦場は討たれた門徒らで死屍累々の有様であった、とある。特に渡河して前線で戦っていた兵たちは、無理に河を渡って退却しようとして溺死した者が多数出たようだ。加賀に帰りついた者は、当初の三分の一以下だったのである。
こうして大敗した下口勢であったが、この報せに驚愕したのが近江国境で小競り合いを繰り返していた上口勢である。本隊による攻撃が失敗してしまったからには、長居は無用である。上口勢は慌てて撤退を始めるのだが、朝倉勢の追撃により琵琶湖北岸の海津に追いつめられた形となってしまうのだ。
この危機を救ったのが、堅田の古参の寺・本福寺である。実如による要請を受けて、住持である明顕とその養子・明宗は、堅田の門徒たちの船70余隻を動員し湖上を帆走、海津浜にいた一揆勢の元までたどり着き、その多くを助け出したのであった。
いずれにせよ、この戦いで一向一揆は大敗してしまう。もしこの戦いで一揆勢が勝っていたら、富樫氏と同じように朝倉氏は滅びていただろうし、そうなると孤立した形の能登畠山氏も危ないところであった。越前・能登・越中は加賀のような「百姓の持ちたる国」となり、北陸4か国が本願寺のものになっていた可能性すらあるのだ。
そういう意味ではこの戦いこそが、以降の本願寺の行く末を決める分岐点であったといえる。(続く)