前回に引き続き、記事の内容がなんだか「馬借・車借」というメインテーマからは、若干外れた内容になってしまっているような気がするが、ご容赦を・・・
さて河村瑞賢による「西廻り航路」開拓により、これまでより遥かに効率的かつ大々的に、米を運べることになった。これにより日本全国ほぼ全ての人が恩恵を受けたわけだが、その唯一の例外が、これまで琵琶湖経由ルートの利用により潤っていた人々である。
「若狭遠敷郡誌」には、西廻り航路以前に小浜から九里街道を通って、琵琶湖まで運ばれた荷は、年20万駄ほどであったが、それ以降は年1万7千駄にまで減ってしまった、とある。なんと92%の減である。
このように一気に衰退してしまった琵琶湖経由ルートであるが、この再興をもくろむ商人たちによって、敦賀・小浜から琵琶湖まで運河を通す、という野心的な計画が何度も立てられている。(というか、実は古代から運河開削の話はあった。古くは平清盛から、戦国期の大谷吉継まで)しかしご存じの通り、結局は実現しなかった。技術的な問題としては、ルートの間にそびえる標高365mの深坂峠の存在が大きかったのであるが、それよりももっと大きな問題があったのだ。
1695年に京都の商人、田中四郎左衛門が立てた計画を見てみよう。これは塩津―深坂間は新たに水道を掘り、同じく敦賀―深坂間は既にある疋田川を使用し、そこから先は深坂峠を切り崩す、というものだ。
当時の測量技術はそれなりに優れていて、琵琶湖は海水面よりも80mほど高い位置にあることは分かっていた。なので掘り下げられた水路には、水位を調整するための門樋を立て、琵琶湖から日本海に流出する水をコントロール可能とする。こうすることで、近江や淀川流域の治水にもつなげることができる、という野心的な計画であった。これに関心をもった幕府の命により、実際に京都所司代によって検分が行われている。
だがそうなると、琵琶湖経由ルートの主役は川船を使っての水運、ということになる。実現した暁には仕事を奪われるであろう馬借たちをはじめ、既得権益を持つ郡内19ケ村の庄屋が反対したこともあり、結局は実現しなかったのであった。(いずれにせよ当時の土木技術では、峠に水路を通すことは不可能だったろう、とは言われている)。
ただこの計画の一部は「疋田舟川」として、1816年に実現している。敦賀から舟を使って疋田川を遡るもので、途中からは川幅九尺(約2.8m)の小規模な運河を掘削し、小屋川(こやのかわ)に繋げたものである。急流のため水位が上がらず、舟底がつかえてしまうので、一部の川底には丸太を敷き詰め、滑りやすくするなどの工夫がなされていた。そのうえで荷を満載した舟を、川沿いの道にいる人夫たちが縄で曳いていく、というシステムであった。
だが結局、川が尽きた後の深坂峠を越えるには陸運を使用しなければならず、経済的な効果はそれほどでもなかったらしい。わずか18年ほどで運用を停止している。
こうして琵琶湖北岸の浦々につながる地域は、経済的には大ダメージを被ってしまう。とはいえ、大津はそこまでの被害は受けなかったようだ。北からの湖運が激減しても、東西の陸運は必ず大津を通る必要があったからだ。
寛永頃からは日本全体が経済成長し、GDPが伸びていく時期でもあった。東海道の物流も増大する傾向にあったから、大津は「東海道五十三次・最大の宿場町」の地位からは転落してしまったものの、江戸期を通じて栄え続けたのであった。(続く)