根来戦記の世界

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中世の運送業者・馬借と車借~その⑭ 江戸期にたてられた「日本海~琵琶湖運河」開削計画

 前回に引き続き、記事の内容がなんだか「馬借・車借」というメインテーマからは、若干外れた内容になってしまっているような気がするが、ご容赦を・・・

 さて河村瑞賢による「西廻り航路」開拓により、これまでより遥かに効率的かつ大々的に、米を運べることになった。これにより日本全国ほぼ全ての人が恩恵を受けたわけだが、その唯一の例外が、これまで琵琶湖経由ルートの利用により潤っていた人々である。

 「若狭遠敷郡誌」には、西廻り航路以前に小浜から九里街道を通って、琵琶湖まで運ばれた荷は、年20万駄ほどであったが、それ以降は年1万7千駄にまで減ってしまった、とある。なんと92%の減である。

 このように一気に衰退してしまった琵琶湖経由ルートであるが、この再興をもくろむ商人たちによって、敦賀・小浜から琵琶湖まで運河を通す、という野心的な計画が何度も立てられている。(というか、実は古代から運河開削の話はあった。古くは平清盛から、戦国期の大谷吉継まで)しかしご存じの通り、結局は実現しなかった。技術的な問題としては、ルートの間にそびえる標高365mの深坂峠の存在が大きかったのであるが、それよりももっと大きな問題があったのだ。

 1695年に京都の商人、田中四郎左衛門が立てた計画を見てみよう。これは塩津―深坂間は新たに水道を掘り、同じく敦賀―深坂間は既にある疋田川を使用し、そこから先は深坂峠を切り崩す、というものだ。

 当時の測量技術はそれなりに優れていて、琵琶湖は海水面よりも80mほど高い位置にあることは分かっていた。なので掘り下げられた水路には、水位を調整するための門樋を立て、琵琶湖から日本海に流出する水をコントロール可能とする。こうすることで、近江や淀川流域の治水にもつなげることができる、という野心的な計画であった。これに関心をもった幕府の命により、実際に京都所司代によって検分が行われている。

 だがそうなると、琵琶湖経由ルートの主役は川船を使っての水運、ということになる。実現した暁には仕事を奪われるであろう馬借たちをはじめ、既得権益を持つ郡内19ケ村の庄屋が反対したこともあり、結局は実現しなかったのであった。(いずれにせよ当時の土木技術では、峠に水路を通すことは不可能だったろう、とは言われている)。

 ただこの計画の一部は「疋田舟川」として、1816年に実現している。敦賀から舟を使って疋田川を遡るもので、途中からは川幅九尺(約2.8m)の小規模な運河を掘削し、小屋川(こやのかわ)に繋げたものである。急流のため水位が上がらず、舟底がつかえてしまうので、一部の川底には丸太を敷き詰め、滑りやすくするなどの工夫がなされていた。そのうえで荷を満載した舟を、川沿いの道にいる人夫たちが縄で曳いていく、というシステムであった。

 だが結局、川が尽きた後の深坂峠を越えるには陸運を使用しなければならず、経済的な効果はそれほどでもなかったらしい。わずか18年ほどで運用を停止している。

 

「舟川遺構竣工記念碑」より、舟を引く人夫たち。九尺の狭い舟川には二艘の並んでの曳航はできず、三艘ほどが一列となって航行した。川舟数艘に米23俵を搭載し、舟引きには60人を要した、という記録が残っている。

 

舟川の舟溜まり。ここが終着点で、ここからは陸送となる。運ばれてきた米は深坂峠を越えて琵琶湖へ向かうのだ。なお舟は下り荷として茶などを積んで、敦賀へと戻っていく仕組みであった。

 こうして琵琶湖北岸の浦々につながる地域は、経済的には大ダメージを被ってしまう。とはいえ、大津はそこまでの被害は受けなかったようだ。北からの湖運が激減しても、東西の陸運は必ず大津を通る必要があったからだ。

 寛永頃からは日本全体が経済成長し、GDPが伸びていく時期でもあった。東海道の物流も増大する傾向にあったから、大津は「東海道五十三次・最大の宿場町」の地位からは転落してしまったものの、江戸期を通じて栄え続けたのであった。(続く)

 

Wikiより転載、南伊勢町に建つ「河村瑞賢像」。瑞賢は「西廻り航路」より先に、裏日本から津軽海峡を通って直接江戸へ向かう「東廻り航路」も開拓している。こちらは航路の安全性にやや懸念があったこと、また米市場のあった大阪を経由しなかったことから、「西廻り航路」ほどには発達しなかったが、幕府天領から江戸への廻米の際には、多用されていた。この両航路の完成によって、江戸期の物流構造が決定されたといってもいい。こうした巨大プロジェクトを幾つも成功させた瑞賢は、幕府の中枢にいる老中たちからも絶大な信頼を寄せられていた。将軍・綱吉に謁見を許されること複数回、士分(旗本)にまで取りたてられている。(この武士身分はプロジェクト遂行の際には、大変役立ったらしい。特に地方において「幕府の命を受けた武士」が来る、というのはかなりの大事であったから、大変仕事がやりやすくなるのである)晩年は小笠原諸島の開発を行おうとしたが、志半ばで病にかかり、断念している。彼の開拓した航路により、琵琶湖ルートはダメージを受けたわけだが、いずれにせよ増大し続ける一方の米の輸送量に、従来からの琵琶湖ルートでは対応しきれなかっただろう。遅かれ早かれこうなっていたはずだ。