前記事で述べたような理由で、大津馬借はそれなりの規模を持つ馬借集団として、江戸期も存続し続ける。彼らは京津街道の物流の担い手となるのだ。なおこのルートの物流の担い手として、他にも伏見の車借らがあげられる。1704年には京津街道を行き交う荷は、車借が40%・馬借が60%の比率で運ぶという取り決めができており、これは幕末まで続いたそうである。
一方、坂本馬借は近辺の運搬業務のみに従属する、零細業者として細々と営業していたようだ。だが面白いのは、この零細の坂本馬借らが、ときたまゲリラ的に隙をついて山中越ルートを使用し、北白川へと荷を運んでいたことが分かっているのだ。
メインル-トである京津街道では牛車が多用されていたが、峠を2つ超える必要があった。牛車で坂を超えるのは大変で、峠には後ろから車を押すための人夫が待機していた。また道もひどく混雑していたようだから、時間もコストもそれなりにかかったのである。一方、荷を運ぶ道として普段は使用されていなかった山中越ルートは、道中はやや険しいものの渋滞することはなかったし、小荷駄を使えば短時間で坂本から京へと、一気に荷を運ぶことができたらしいのである。
このような坂本馬借のゲリラ輸送に対して、大津馬借らは幕府に訴えを起こしている。大津の馬借らは陸送業務独占の対価として、ルートの維持管理・また幕府御用の伝馬役などを務めていたわけだから、こうした義務から解放されていた坂本馬借らの行為はルール違反である、というわけである。
坂本馬借らもこれには反論できず「以降は、京津街道を使います」など、しおらしいことを述べているが、口だけのことで以降もたびたび行っていたようだ。記録に残っているだけでも8回、訴訟が起こされている。
こうした抜け荷的な運搬は、零細馬借に限らず、個人レベルでもよくあったようだ。自分の牛馬を使用して自家用の荷を運ぶことは、当然の権利として認められていたわけだが、ついでに駄賃をもらって他人の荷を運ぶわけである。白ナンバーのトラックのようなものだ。こうした動きに対し、大津馬借らは「ばれたら荷を全没収」という厳しい姿勢で臨んだようだが、数は一向に減らなかったようだ。
さて、このように我が世の春を謳歌した宿場町・大津と大津馬借らであったが、1672年以降はその繁栄にやや陰りが見えるようになる。とある商人が開拓した、新たな流通ルートの出現により、琵琶湖経由で運ばれる米の運搬量が激減してしまったのである。(続く)