根来戦記の世界

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中世の運送業者・馬借と車借~その⑬ 河村瑞賢の「西廻り航路」により、激変した米の流通ルート

 江戸初期の豪商に、河村瑞賢という人がいる――彼は凄い男なのである。南伊勢の、さほど豊かではない農家の長男に生まれるが、13歳で江戸に出ている(跡継ぎのはずなのだが、江戸に出てきた理由ははっきりしていない)。江戸では、まずは車力になったそうであるから、どこぞの車借組織に雇われていたのかもしれない。この時に知り合った、車持ちの娘を妻に迎えている。

 その後、行商人になっている。この頃の逸話として、川岸にお盆の供え物の野菜が川に流されているのを見つけ、それを乞食に拾わせ樽に塩漬けにしたものを売って小金を稼いだ、という逸話が残っている。このように人をうまく使うのに天性の才があったのだろう、土木工事の人夫頭になり、更には工事を請け負う経営者になるのである。

 土木工事の請負業を経営しながら、そのうち材木の売買も手掛けるようになる。彼の一大飛躍のきっかけとなったのが、1657年の「明暦の大火」である。江戸が燃えている最中、いちはやく木曾へ駆けつけたのが瑞賢であった。大した資本があるわけでもないのに、度胸とハッタリで木曾の材木を買い占め、あとから来た材木商らに高値で転売したのである。

 こうして瑞賢は、大金を手にすることに成功する。ここまでならば、巷でよくある出世話で終わるのだが、彼が本当に凄いのはここからなのである。転売した利益を資本に、土木・建築請負の仕事を更に拡大させ、幕府の御用商人にまで上り詰めた彼は、土木のエキスパートとして幕府の命を受け、歴史に残る数多くのプロジェクトを手掛るようになるのである。

 江戸市中の運河を開削し、インフラの基礎を造ったのも彼である。これだけでも男子一生の大仕事なのだが、他にも大阪における大規模な治水工事や、越後高田藩における河川付け替え・築港による新田開発、越後の銀山経営など、全国を飛び回って手掛けた大規模プロジェクトは多岐に渡っている。そしてそんな彼が成した最も巨大なプロジェクトが、1672年に開拓したこの「西廻り航路」であったのである。

 幕府の要請により、新たな流通ルートを開拓する役を仰せつかった彼は、信頼できる手代を裏日本各地の港へ派遣、集まってきた報告をもとにプランを策定する。まず積み出しの一大集積地となる酒田には、幕府の予算で倉を幾つも建てること、米を運ぶ船からは入港税を取らないこと、航路の難所に関しては、番所を各港に設置し情報収集にあたらせること、かがり火を焚くこと、小舟で道案内をつけること、など細かい運用ルールを策定したのである。

 これにより東北の米を積載した船が直接、瀬戸内海を経由して大阪へ荷揚げされるようになったのだ。これは真に偉大なプロジェクトで、この後200年以上続く、江戸の物流構造を決定づけたのである。

 

西廻り航路の例。酒田から日本海をぐるっと回って瀬戸内海、そして大阪へと続くルートである。地図上には、代表的な寄港地を記入してある。船は基本的には沿岸部から離れず、岸の見える範囲内で航海したようだ。中途の敦賀ないし小浜で荷揚げして陸送する琵琶湖ルート(ごちゃごちゃして分かりにくいので、詳細なルートは前記事を参照のこと)よりも、えらく遠回りに見える。

 

 「寛文雑記」という江戸期の書物に、越後から大阪まで米を100石運んだ場合、両ルートにかかるコストが比較されている。それによると西廻り航路を使用した場合、経費も含めた運賃は19石である。一方、敦賀で陸揚げして琵琶湖経由で運んだ場合、総運賃は17石5斗8升と、運賃自体は琵琶湖ルートの方が安かったのである。

 だが問題は積み替え作業時に発生する、米の目減りであった。琵琶湖ルートだと海運→陸運→湖運→陸運と、大阪に着くまでに3回の積み替え作業が発生する。この積み替え作業時に「米のロス」が発生したようで、これが何と4石8斗もあった。合計すると琵琶湖ルートは22石3斗8升となり、コストが逆転するのだ。

 この米のロスの正体は、積み替え時に大量の歩留まりが発生してしまうことによる。長期保存に適していたとはいえ、倉に入りきれない米俵は(何しろ凄い量なのだ)野ざらしになっていたそうだから、雨に濡れるとカビが発生したし、盗難や鼠害もあったようだ。これが4石8斗の物理的なロスとなったのである。

 またこの歩留まりは、時間のロスにもつながった。荷を運ぶスピードそのものは、「少量ならば」琵琶湖ルートの方が早かったらしい。しかし1万石の米を「すべて」運ばなければいけないとなると、複数ある積み替えスポットがボトルネックとなって、運び終わるのに時間がかかったのであった。

 なお琵琶湖ルートで運ばれた米は、大津でも売ることができた。そうすれば陸運と積み替え作業が1回ずつ減るのだが、大津の米市場は総じて相場が安く、大阪で売った方が高く売れた。結果、両ルートで米を運んだ場合、100石に対して銀510匁の差が出たそうである。

 結果、これまであった敦賀・小浜から琵琶湖へ、そして大津という米の輸送ルートは大打撃を受けることになる。湖上水運の量が激減してしまったのである。(続く)