根来戦記の世界

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中世の運送業者・馬借と車借~その⑨ 車借の二大拠点・鳥羽と白河(下) 京の物流を支え続けた鳥羽車借

 早くに衰退してしまった白河車借に比して、鳥羽車借はなんと明治まで続いている。両者の違いは何であったのだろうか?

 六勝寺と同じように、廃れてしまったのは鳥羽離宮も同じなのだが、鳥羽には大きな利点がひとつあった。灌漑によって埋められてしまって、今はもう見ることはできないが、中世の下鳥羽の南には巨椋池があったのである。

 この巨椋池、琵琶湖から流れてくる宇治川や、桂川・木津川など3つの水系が流れ込む、池というよりは湖であった。ここで一旦貯めこまれた水は、淀川を通じて大阪湾へと流れていく。4つの川と通じているこの湖は水上交通の結節点であり、船で運ばれた荷が荷揚げされる「津」が複数存在した。

 

国土交通省HPより転載。現在の地図に巨椋池を重ね合わせたもの。上記で示した巨椋池は、中世ころの古い姿である。江戸期以降は、秀吉による河川付け替え・堤の構築などで、また異なった姿となっている。いずれにせよつい最近、1932年までこの池は存在していたのだ。その大きさは東西4km、南北3kmにも達したという。

 

「都名所図会」より、江戸期の巨椋池。規模的には池というよりも湖であるが、遠浅ではあったらしい。昭和の記録に「夏になると、水面は色とりどりの蓮の花に覆われ、なんとも見事な景色であった」とある。江戸期は漁業も盛んであった。1932年から始まった開拓事業によって農地となり、今では見る影もない。

 

 巨椋池に水揚げされた荷は、ここから畿内各地へと運ばれていくのだが、一大消費地であった京のみやこに向かう荷が一番多かったのである。また先の記事で述べた通り、巨大建築物の建造の際に使用する建材は、遠国から舟を使って運ばれてくるのであるが、最も京の近くまで水運を使用できたのが、この鳥羽周辺の津だったのである。そしてここで荷揚げした材木を京まで陸送するのは、車借にしかできないことだったのだ。

 さて鳥羽の車借であるが、その起源はおそらく鳥羽離宮そのもの、或いはその中にあった寺院・安樂寿院に仕えていた神人たちに求めることができるのではないだろうか。鳥羽離宮が早くに没落してしまった後は、その地に君臨する大沢家により統括されることになる。藤原北家の子孫を自称していた大沢家は、古くから幕府に仕えていた名家で、1378年の家重の代に鳥羽へ移住、代々鳥羽荘司を務めた。足利将軍はじめ多くの公卿たちが、西国や岩清水八幡宮へ赴く際には、わざわざ来館するほどの家柄であった。

 この大沢家は鳥羽の車借たちを統括していたのみならず、廻船業者をも営んでいた。つまり淀川を利用した京までの水運~陸運という物流を、一手に握っていたことになる。豪商的性格が非常に強い一族であった。

 商才のあった大沢家は、戦国という荒波を見事に乗り切る。江戸寛永期には、京の豪商、茶屋・角倉両家と組んで、海運のノウハウを生かし安南(ベトナム)までの朱印船貿易にまで関わっている。

 

江戸初期の朱印船貿易については、こちらの記事を参照。

 

 朱印船貿易はリターンが大きいが、リスクの高い事業でもあった。大沢家は巨万の富を得られる朱印船事業に惑わされることなく、引き続き幕府御用の鉄砲・木材・城米などの陸送を担う、鳥羽車借の統率者であり続けた。1625年には南方との朱印船貿易鎖国によって禁止され、リスクヘッジをしなかった多くの貿易業者は没落していくのであるが、地に足の着いた大沢家は鳥羽車借と共に江戸初期にその最盛期を迎える。1625年には、鳥羽にあった牛車は実に291輌を数えるほどになるのだ。

 拙著1巻「京の印地打ち」において、次郎の父・仁兵衛は1530年代に当時の大沢家当主に抜擢され、単なる車力から車持ちになった、という設定にしてある。仁兵衛が躍進した契機となったのが、1532年頃より京が法華宗徒の手に落ちた「天文法華の乱」である。

 

「天文法華の乱」の詳細については、上記の記事を参照のこと。京の自治権が最高潮に達したのがこの時期であった。

 

 この乱において、京周辺の車借や馬借たちは、京の法華宗徒たちの敵に回っている。どうも京に通じる関を占領し、物流を止める「兵糧攻め」をしたようである。これに怒った京衆たちにより、鳥羽は「打ち回り」(示威行動)の対象になっているのだ。法華一揆たちが鳥羽まで押し寄せた、という記録が残っている。

 馬借・車借たちが京衆の敵に回ったのは「宗教上の理由」というよりも、米の販売を独占する米座たちに対抗する意味合いで、利権絡みのものであったと思われる。過去の記事でも紹介したように、室町期には車借・馬借たちは米の陸運業者から中小の商人に成りつつあった。だが戦国期辺りから、どうも強大な資本を持つ京の米座に市場を独占されてしまい、米の売買からは締め出されてしまったようである。

 この時代、米座は「諸座の上座」と称されるほど、力のある座として京に君臨していた。豊作の年には米の流入をあえて止め、米価の下落を防ぐということもしており、豊作にも関わらず京都が飢饉になる事態なども引き起こすほど悪どい存在だった。商売相手ではあったが、馬借・車借らを単なる運送業者へ封じ込めんとする存在でもあったから、敵に回ったわけである。

 鳥羽へ押しよせた、京衆のこの「打ち回り」の顛末がどうなったかは、詳細が伝えられていないので分からない。拙著では次郎の父・仁兵衛と兄・菊太郎が一揆勢の陣へ乗り込んでいき、命がけの交渉の上、鳥羽から引き上げさせたということにしている。(続く)