根来戦記の世界

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中世の運送業者・馬借と車借~その⑥ 土一揆に参加して暴れはするが、それはそれとして強訴の動員にも応じる馬借たち

 さて前記事で見たように、1428年9月18日の馬借蜂起を契機とし「正長の土一揆」が発生したわけだが、実はその1か月前の8月に近江国において、徳政(借銭棒引き)が行われていたことが複数の記録に残っている。

 近江国におけるこのケースだが、そもそも誰が徳政を出したのか、徳政に至るまでの経緯、そして実際に暴動沙汰があったかどうかなど、記録が断片的で全体像がよく分かっていない。だが、どうもこの騒動も先の記事で紹介した「山門による麹の訴訟沙汰」に影響されて起こったものらしい。

 叡山はこの麹訴訟を起こす際に「返事によっては、馬借蜂起も辞さず」と公言していたようだ。幕府に対して、強いプレッシャーをかけていたのである。1428年は全国的な飢饉が起きていた年で、春には大量の餓死者と流民が発生、「三日病」という病まで流行していた。このように社会情勢が極めて不安定なところに、山門の脅迫騒動である。実際に馬借たちが集住していた近江国において、借銭を返せず田畑を取られそうになっていた庶民、或いは食うに困った流民たちが、こうした不穏なムードに乗じて徳政を要求、暴動を畏れた債権者がこれに応じた、ということのようだ。

 既にこうした下地があったわけだから、その1か月後の9月に実際に馬借蜂起が起きると「よっしゃ、俺らも近江の連中みたいに徳政要求しようぜ!」というムーブメントが波及するのは必然であった。暴徒たちはこれに乗じ下京へとなだれ込み、大暴れしたのであった。

 以前も述べたが、京にあった土倉のスポンサーの多くは、比叡山延暦寺である。暴徒らが土倉を襲うのは、馬借らにとっても予想外のことであったのだ。しかし実際に一揆が発生し、目の前で土倉が襲われたとき、彼らはこれを止めようとしたのだろうか?そうは思えない。実際のところその逆ではなかっただろうか。

 以下は個人的な見解なのだが・・・過去の記事で紹介した越前の馬借の例のように、室町後期の馬借らは単なる運送業者に留まらず、米の仕入れ・運送・販売など、商いの分野にまで進出していた。ましてや京は、日本で最も進んだ経済都市であったわけだから、坂本や大津馬借のように京近郊において馬借・車借業に従事していた者の多くは、中小の商人的存在に成長していたのではないかと考えている。事実、過去の記事で紹介した、1418年に馬借らがおこした「馬借蜂起」は、堅田の関にかかわる米の売買トラブルが原因であった。

 そんな馬借らにとってみれば、麹を巡る騒動は死活問題であった。そもそも世界的な天候不順により全国的に飢饉が発生しており、ましてや巨大化を続ける京の消費人口は増大する一方であった。15世紀ごろから米価は上昇する傾向にあり、米は極めて含み益の大きい商品となっていたのである。こんな美味しいご馳走を、大資本を有する京の土倉らが見逃すはずがない。米は絶好の投機の対象となり、彼らは競って米市場に参入していったとものと思われる。

 そんな時に発生した、麹騒動である。北野社の麹座は麹製造を独占したはいいものの、その限られた生産能力では酒屋の需要を満たすことができず、市場に急に米がダブついてしまったため、今度は逆に米価が一気に暴落してしまったのである。このように激しく上下する相場に翻弄され、最もダメージを受けたのは、馬借らのような資本の少ない中小の商人たちであったのだ。

 便乗して途中参加した暴徒どもは、徳政による借銭帳消し、またそれ以上にどさくさに紛れての略奪が目的であっただろうが、馬借らにしても借銭で苦しんでいたのは同じだったとするならば、いつの間にか暴徒の一員として略奪に参加していたとしても、おかしくはないだろう。

 この1428年に発生した「正長の土一揆」を皮切りに、土一揆が頻発する時代が続く。応仁の乱が始まる1478年までの50年間で、記録に残っているだけでも、23回の土一揆が発生している(「土一揆の研究」に拠る)。そしてこれらの土一揆の際、大抵の場合は馬借たちも参加していたようである――どころか、彼らが主体の土一揆すらあった。(1456年・1493年に発生した土一揆など)

 このようにして土一揆に関わるようになった馬借たちだが、叡山に属する集団としての仕事を果たさなかったわけではない。引き続き「強訴の尖兵」としての役割もきちんと果たしている。

 上記と全く同じ期間、1428年~1478年までの50年間で、叡山の強訴に伴って大津・坂本の馬借が「馬借蜂起」した数を数えると、12回である(「新修大津市史」に拠る)。馬借らは土一揆の一員として、(叡山資本の)土倉に対して徳政を要求し、時にはこれを襲いつつも叡山の要請によく応え、その尖兵として幕府や大名どもとも戦ってもいるわけである。

 現在の我々からすると、馬借のこうした行動は一見矛盾した姿勢だと思ってしまうが、中世においてはそうではなかった。中世日本の基本ルールは「自力救済」、そして各々の共同体の関係性も、相対的な「リゾーム構造」であった。その時々で微妙に変化する関係性の中で、馬借たちは自らの利となる方に与して動いていたに過ぎないのであろう。

 

中世日本の社会構造については、こちらの記事を参照。様々な共同体が錯綜した関係性の中で、微妙なパワーバランスの上に成り立っていた。互いに繋がりつつも、上下左右に揺れ動いているイメージであろうか。江戸期のかっちりとした体制とは大違いである。

 

 これは同じ馬借間であってもそうである。1441年に発生した「嘉吉の土一揆」の際には、当初は一揆勢に参加していた馬借勢のうち、近江の馬借勢は叡山の意を受けてこれから離反、互いに戦っていたりしている。

 ただこうした二面性は、大津・坂本など京近郊の馬借たちに強く見られるのに比して、地方においてはそうでもないようだ。これは彼らが、強大な資本が集まる地域の経済活動に関わっていたからではないだろうか。

 周囲の富を吸収し、成長する巨大都市・京都。欲望と富が渦巻くこの地において、馬借らは「時代の変化」という荒波に溺れまいと、必死に泳いだのである。巨大資本と揺れ動く相場に翻弄されながらも、その時々で自らに最適な選択をしていった結果が、こうした行動に結びついたのではないだろうか。(続く)

 

江戸期に出版された「庭訓往来絵鈔」の挿絵。絵に描かれた文言の通り「馬借といえば大津・坂本、車借といえば鳥羽・白河」と伝えられていたほどの存在であった。

 

木城ゆきと作「銃夢」。日本を代表するSF漫画である。この8巻に「馬借(バージャック)」という反政府武装集団が出てくる。周辺の農場から中央に位置する都市・ザレムへと、武装列車を通じて食料や生活必需品が運び込まれていくのだが、彼らはそれを狙って攻撃する組織なのである。この8巻のサブタイトルがズバリ「馬借戦記」である。近未来SFに、中世日本の輸送業者の名を冠した組織を出すあたり、流石のセンスである。この漫画は海外での評価も高く、あのジェームズ・キャメロンがハリウッドで「アリータ:バトル・エンジェル」として映画化している。映画の出来はまあまあといったところだが、漫画の方は本当に凄い名作なのだ。是非に手に取って読んでみてほしい。