根来戦記の世界

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中世の運送業者・馬借と車借~その⑪ 牙を抜かれた馬借たち 発展する大津、廃れる坂本 

 戦国が終わり、世の中は織豊政権による中央集権体制となる。天下が完全に鎮まるまでは、「関ヶ原」や「大阪の陣」など、まだ幾つかの大戦を経なければならなかったが、少なくともこれまで各地で多発していたような、小勢力同士の泥沼の小競り合いはなくなった。また流通の最大の障害であった、星の数ほどあった関所の数も激減したため、商品流通経済がより活発になったのである。

 シリーズの始めで紹介したように、中世の馬借たちは地域の権力者――つまりは戦国大名らと結びついて、その地の物流を担っていた。近世に入っても、その構図自体は大きくは変わらないのだが、これまで持っていた商人的側面ははく奪されてしまう。かつて強い力を持っていた馬借組織は細分化され、各地の村落共同体に属することになるのだ。

 そうした村落の中から、幕府より正式に「宿場」として認定された村に「馬借」として登録されたものたちが、運送業を営業していくことになる。宿場近郷に住む牛馬を持つ百姓たちが、農耕の合間に自ら馬借として運送業に携わるわけである。時代が下ると、そこから専業の馬借業に発展していくものもあったようだ。

 基本的なルールとして、宿場にいた馬借らは、決められたルートにおける陸送業務の独占権を持っていた。その代わり、同ルートにおける伝馬役などの幕府御用に応じる義務があり、また宿場の構成員の一員として、その維持管理なども一部担っていた。これらの運搬業務の免許ともいえる「馬借株」や「馬札」などは、時に売買の対象にもなっていたようだから、(ルートにもよるが)それなりにうま味のある業態だったことがわかる。

 このように中世のそれと比較して、近世の車借・馬借の内実は大きく変化している。特に京近郊においてはそれが顕著であった。寺社勢力の傘下にあり、強力な権益や武力を持ち、時に一揆の主力になるほど暴れ回っていた、坂本・大津の両馬借組織もまた同じように解体され、完全に牙を抜かれてしまったのであった。

 特に坂本の廃れっぷりは、酷いものだった。これは信長の「叡山焼き討ち」のせいもあるのだが、それよりも坂本から北白川までの「山中越」ルートの需要が激減してしまったことが、根本的な原因であった。中世とは物流の流れが大きく変わってしまったのである。

 坂本の代わりに発展したのは、新たに東海道の53番目の宿場町として認定された大津である。17世紀には1万7千人ほどの人口を擁していたようで、中世の坂本とは完全に立場が逆転してしまっている。実のところ江戸初期においては、東海道にある53の宿場のうち、最大の規模を誇っていたのが大津だったのである。これはなぜかというと、新たに大津が米の一大集積地になったからなのである。

 江戸幕府は石高制を採用していたから、米の生産と流通は、最も大事な経済活動ということになる。江戸初期までの米の流れは以下のようなものだ――東北で収穫された米は日本海を通って、ことごとく敦賀・小浜の両港に運ばれてくる。ここから琵琶湖北岸の塩津・海津・今津まで陸送され、更に琵琶湖の水運を経由して、ここ大津へと水揚げされるようになるのだ。

 

江戸初期までの、米の主要な運送ルート(細かく見ていくと他にもあるのだが、割愛している)。「小浜」ないしは「敦賀」で陸揚げされた米は、馬借たちによって琵琶湖北岸の「今津」「海津」「塩津」に運ばれた。ここで丸子船に積み替え、大津を目指したのだ。1649年の調べでは、琵琶湖にあった船数は1854艘とのことである。登録漏れもあったことだろうから、2000艘近くの船が琵琶湖上を行き交いしていたことになる。なお、近世の琵琶湖の湖運に関しては、「大津」「堅田」「八幡」の3つの町が統括役であった。この3つの町は「諸浦のおや郷」と称されており、「廻船規定に違反した船を抑留」する権利を与えられていた。また湖運に関しても、優先的な特権を行使していたようである。これまでの記事では全く言及していないが、「諸浦のおや郷」の3つのうちひとつ「堅田」という港町は、これだけでいくつか記事を書けてしまうほど面白い町である。中世においては最強の水軍を所持、琵琶湖の制湖権を握る「湖賊都市」であり、また「堅田衆」によって運営される、自治都市でもあった。近世になって、軍事力と共に自治権もはく奪されてしまったものの、経済的には陰りを見せず、先述した湖運の統括役の他、琵琶湖の漁業権まで押さえていた。堅田には3つの漁師組があったが、そのうちのひとつ、立場漁師組に至っては、対岸の伊崎に植民地的漁場まで持っていたのである。

 

 大津に集められた米は、京津街道を使って京、そしてそれ以上の一大商業都市として成長しつつあり、全国の藩が蔵屋敷を設けていた、大阪へと運ばれていった。大阪には巨大な米市場があり、諸藩はここで年貢米や特産品を換金したのである。江戸期の大阪が「天下の台所」と言われた所以である。

 こうした陸送需要に応えるべく、京津街道も大幅に拡大整備され、数多くの旅人と共に、小荷駄・牛車の列が街道を通ることになるのだ。

 一方、商業流通のルートから外れてしまった坂本の町は、一気にその規模を縮小してしまう。焼き討ち前の坂本の人口は、1万数千人ともいわれていたのだが、1721年の記録によるとその数は2100人余り、往時の20%以下になってしまっている。以降、坂本は地方の一門前町として細々と続いていくことになるのだ。(続く)