根来戦記の世界

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根来寺・新義真言宗とは~その③ 空海の再来・覚鑁登場

 さて平安期の仏教は(南都六宗も天台も真言も)貴族のための宗教であったわけだが、浄土思想や末法思想にうまく対処できず――というよりも、開き直りに近い姿勢を見せて――平安末期頃から台頭してきた、武士や庶民たちのニーズを満たすことができなかったのは、前回の記事で述べた通り。

 だがもし仮に、例えば真言宗が真摯に彼らに向き合ったとしても、そのままの教えでは、彼らに受け入れられることはなかっただろうと思われる。

 過去の記事で述べたが、密教の教えというのは端的にいうと「スーパーマンになる」ことを目指した宗教である。現世からひとり、高みへと昇る。救われるのは自分、ないし自分が導く弟子たちだけ。彼らは加持祈祷で天災などは防いでくれるが、他人の生き方や魂まで救えるわけではないのだ。

 だからもし本心から救われたいと欲するならば、自分もスーパーマンになるしかない。そのためには、膨大な量の知識と煩雑な所作を勉強しなければならない。現実問題として、それができるのは余裕のあるよほど裕福な者か、凄まじく頭の良い者だけである。では、それができない貧しい凡夫は置き去りなのか?諦めるしかないのだろうか?つまり真言密教は、「庶民のための宗教ではない」ということになる。

 そんなわけで密教は、新興階級である武士や庶民層の支持を得ることはできなかったわけである。これは構造的な問題であって、仕方なかったことかもしれない。いずれにせよ密教の二大勢力・台密比叡山)と東密高野山)もまた、あくまでも従来通りのやり方を踏襲したから、救いを求める彼らに本当の意味で向き合うことはなかったのであった。

 そうした流れの中で、のち「鎌倉新仏教」が生まれるのである。人々は新しい救いの形を求めていたから、法然(浄土宗)・親鸞浄土真宗)・栄西臨済宗)・道元曹洞宗)・日蓮日蓮宗)・一遍(時宗)らの興した「万人を救う教え」に、そろって帰依することになるのである。

 これら鎌倉新仏教を興した開祖らの殆どは天台宗出身、もしくは延暦寺にて修行経験のある僧である。過去の記事で何度も触れたが、最澄天台宗を興すにあたって4つの宗派を融合させたわけだから、多様性を内包していた。そうした理由で延暦寺は仏教の総合大学的性格を持っていたから、新しい考え方が芽吹く土壌を有していたのである。

 例えば、浄土思想をきちんとした学問として発展させたのは、源信という天台宗の僧なのである。しかし源信延暦寺の世俗化を嫌い、叡山の外れにある横川に隠棲していた僧であり、彼が打ち立てた浄土思想教学も、天台宗のメインの教学に取り入れられることはなかった。

 このように、天台宗の教えそのものは変わらなかったから、せっかく芽吹いた新しい思想を有する人たちは源信のように隠者となるか、鎌倉新仏教の開祖たちのように比叡山から巣立っていき、新しい宗派を興すことになるのである。(そして後年、古巣の比叡山からは排撃されることになるのだ)

 対する真言高野山は、密教の専科大学である。構築された理論に矛盾がなく、ガッチリ固まっている。また天才・空海が編集した教えであったから、教理上に隙がなく、それ故に発展する余地が少なかった、とも評されている。

 実際その通りで、真言宗の確立から150年、東寺と高野山の間で「どちらが本寺となるか」というような政治的な争いはあったが、教義上は大きな混乱もなく順調に続いてきた。それ故に、これら末法思想や浄土思想の流行に対して総じて鈍感であった。だが中には、こうした動きに強い危機感を持つ、心ある宗教人もいたのである――そのひとりこそ、根来寺開祖・覚鑁であった。

 覚鑁末法の世がはじまって40年ほどたった、1095年に肥前で生まれている。学問の面で天性の才があった彼は、13歳で出家を志し、16歳で上洛し仁和寺に入った。

 仁和寺は当時、東大寺の学侶も参加する「経論」の論議が盛んに行われるなど、密教教学の研究が非常に盛んな寺であった。覚鑁はこうした刺激的な環境に身を置きつつ、多くの優れた師の元で研鑽を積む。20歳の時、高野山に登り勉学に励み、教相と事相を習得。35歳にして真言の教えのことごとくを会得し、伝法灌頂を行い「空海以来の天才」と称されたのであった。

 そして身につけた莫大な知識を基に、彼は真言に新風を吹き込むのだ。覚鑁の深遠な教えを、恐れ知らずの著者が超砕けた物言いにまとめてみよう。

 覚鑁は言う――「今は末法の世である、というのは間違っていますよ。だから厭世的になる必要はないんです。前向きに生きましょうね。でも阿弥陀仏信仰(浄土思想)は認めます。だって私の解釈ではそれは元々、真言密教の中に既にあるものなんですから。え?どういうことかって?つまりですね、密教の教えに従って精進したものはこれまで通り、即身成仏への道が開かれます。だから引き続き、頑張りましょう。でも精進が足りなくても大丈夫、ってことなんです。凡夫でも、その時(死ぬ時)が来たら順次往生できます。辿るルートは一見違うけれど、結局は同じことなんですよ。両者とも最終的には『密厳浄土』に行きつくんですから」

 「浄土思想」と「末法思想」からの問いかけに対する、覚鑁からのアンサーがこれなのである。まず彼は、とかく厭世的な性格を持つ末法思想を否定した。しかし浄土思想の方は否定せず、浄土思想でいうところの浄土もまた、真言でいうところの三密で規定された現世と同じものである、とすることで、逆に真言の内部に取り込んでしまったのである。東密の教えそのものを「再編集・再構築」して、浄土思想にまで広げるという、教義上の改革を行ったのであった。

 

京都知恩院蔵「覚鑁上人像」。「密厳浄土」とは何か。密厳は密教でいうところの三密の教えに則った現世世界、浄土は浄土思想でいうところの極楽のことであり、この両者を合体させた、覚鑁が新たにつくった造語なのである。覚鑁はその著書で「浄土思想でいうところの阿弥陀仏とは、密教大日如来と同じものである。また浄土思想でいうところの極楽は、密教でいう密厳、つまるところ現世の世界と同じなのである」旨を述べている。

 

 かつて空海真言宗の教義を構築する際、南都六宗などの既存の他宗をその内に取り込んでしまっている。見方によっては、覚鑁はこれと同じことをしたといえる。長い真言の歴史のうちで、これほどまでに大胆な教義上の改革を行った者はいなかった。それ故に彼は「空海の再来」と称されるのである。

 

空海の「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の思想については、こちらを参照。既存の教えを全て呑み込んでしまうスケールの大きな発想であるが、これは空海のパーソナリティをよく表していると思う。

 

 宗教が後世に至るまで残っていくには、社会構造や人々の意識の変化に対応していく必要がある。時代に合わせて教義をアップデートさせなければ、本当の意味で生き残ることはできない。

 最澄とその弟子たちの台密は、中国の天台宗を日本向けにアップデートさせた結果、生まれたものだ。時代の転換期になって、そこから更に鎌倉新仏教が生まれ、巣立っていった。

 一方、覚鑁が行ったこの教義改革は、東密内で行われた初のアップデートであり、そして最後のものだったのである。(続く)