根来戦記の世界

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根来寺・新義真言宗について~その⑥ 覚鑁の弟子たち(上) 仕事のできるお坊ちゃん・隆海の40年に渡る政治闘争

 覚鑁亡き後の根来の地には円明寺があり、そこでも教えは守られ続けてきたようだが、覚鑁派の本流は未だ高野山中にあった。その中心は、何といっても覚鑁が建立した大伝法院である。

 鳥羽上皇から多くの寄進を受け、財政的にも豊かであった大伝法院の勢力は、カリスマであった覚鑁が不在でも、一朝一夕になくなるものではなかった。彼の教えは、引き続きこの大伝法院において引き継がれていくことになる。

 この時期の大伝法院を率いていたのは、先に記事で少しだけ触れた隆海であるが、彼が大伝法院座主の座に就いたのは、なんと19歳の時である。彼は覚鑁の有力門弟であった兼海法印の弟子であった。

 数多いる直弟子を差し置いて、孫弟子に過ぎない彼がなぜ座主に就任できたのだろうか?実はこれは彼が、関白職にあった藤原師通の孫、つまりは摂関家の出であるからなのだ。

 要するに、金剛峯寺との政治的争いを見据えたゆえの動きなのである。だが彼はただのボンボンでなかった。特に密教修法の分野に精通しており、いくつもの著作を残している。

 知性の面で十分にその資格のあった彼は、しかしそれ以上に政治というものを理解していた男であった。なにしろ摂関家の一族の出なのである。スポンサーである鳥羽上皇はいまだ健在とはいえ、隆海には覚鑁ほどの学識やカリスマ性はない。東寺の強大な政治力に対抗するためには、摂関家のコネを動員して、政治的な争いを戦い抜かなければならなかったのだ。そしてそれこそが、彼のもっとも得意とするものだったのである。

 しかし隆海が政治的な戦いを繰り広げるうえで、ひとつ不利なことがあった。それが覚鑁の定めた「座主は山を下りてはいけない」というルールである。

 高野の本寺は、京にある東寺である。元々は東寺のトップである東寺一長者が、大伝法院の座主に就けないようにするために定めたルールであった。しかし隆海が政治活動を行う際は、権門の中枢近く――要するに京にいて、朝廷に様々な働きかけを行うことが不可欠なのである。

 そこで彼はどうしたかというと、なんと大伝法院座主の座を弟子に譲ってしまったのである。1166年、隆海47歳の時である。こうして自由の身になった彼は、晴れて政治の中心地である京に本拠を構えた。しかし彼は大伝法院の実権を手放さなかった。要するに「院政」をひいたのである。

 隆海は在京しながら、そののち3代に渡って次の座主を指名するなど、トータルで40年にも渡って大伝法院の実権を握り続け、金剛峯寺との政治的な戦いを繰り広げたのであった。

 1168年の4月ごろ、金剛峯寺と大伝法院との間で、「裳切(もぎり)騒動」が発生する。これは大伝法院が金剛峯寺の定めた法衣のルールに従わなかったために起きた騒動のようだが、事態がエスカレートし、双方相乱れる合戦のような大騒動になったのである。結果、高野山上にあった大伝法院は、護摩堂や大温室など200の僧房が破却され、仏像や経典類まで奪われるという大被害を被ってしまったのであった。

この時に活躍したのが隆海である。

 この当時、院政をひいていたのは後白河上皇である。後白河上皇自身は当初は中立的な立場であって、どちらかに肩入れするのを迷っていたようだ。しかし隆海はそんな上皇に対し、盛んにロビー活動を行ったのである。結果、4月中旬には金剛峯寺検校以下17名の取り調べが行われ、5月3日には責任をとる形で検校・宗賢が薩摩国へ、玄信が壱岐国へ、覚賢が対馬へと流罪となっている。6月下中には、大伝法院が被った全ての被害を金剛峯寺に弁償させるなど、全面勝訴の内容を勝ち取ることに成功するのだ。長年にわたり在京していた、彼の人脈がものを言ったのである。

 しかし東寺・金剛峯寺との政治的争いに、決着がつく兆しは見えない。「裳切騒動」が一段落した1173年、この年54歳を迎える隆海は、なんと「権威を募り、師跡を守らんがため」大伝法院を仁和寺御室守覚に寄進してしまったのである。

 「老い先短い自分が死んでしまった後、伝法院を支える新たな保護者が必要だ」――そう考えた隆海は、自らに代わる新たな保護者として、覚鑁が若いころ修行した、京にある仁和寺を選んだのである。そのためには「住山不退」の規定が妨げとなる。そこで彼はこの規定をも削除してしまった。これにより独立した寺院であった大伝法院は、仁和寺の末寺となってしまったのだ。

 

桜の名所で有名な、京・仁和寺。888年に開創された典型的な門跡寺院で代々、皇族が住職を務める寺である。この仁和寺の傘下に入ったことにより、大伝法院座主には出家した皇族が就くことになり、一度も山上に来ない座主が増えることになるのだ。単なるお飾りと化してしまった座主の代わりに、学問上の実践は学頭が務めるようになる。

 

 東寺をバックに持つ金剛峯寺に対抗するための処置とはいえ、これは覚鑁の定めたルール、「在洛名利に囚われた~」という教えに反する行いといえる。東寺にしてみれば「ほら、みたことか。偉そうなことを言っていても、結局は仁和寺が東寺にとって代わろうとしただけじゃないか!」ということになる。

 この後、実際には仁和寺は大伝法院のバックとして、そこまで強大な力を振るうことはなかったのであるが、これを契機に大伝法院座主の座は外部勢力に流出することになってしまうのだ。高野における2大勢力、金剛峯寺は東寺系、大伝法院はその他の外部勢力系、という対決構図が出来上がってしまうのだ。(続く)