中世の運送業者・馬借と車借
室町期の往来物に「大津坂本馬借・鳥羽白河車借」と謡われた、中世の運送業者たち。江戸期に入って坂本馬借は衰退し、大津馬借は繁栄する。白河車借は既にない。最後のひとつ、鳥羽車借はどうなったのだろうか? 鳥羽車借の全盛期は、織豊期から江戸初期にか…
前回に引き続き、記事の内容がなんだか「馬借・車借」というメインテーマからは、若干外れた内容になってしまっているような気がするが、ご容赦を・・・ さて河村瑞賢による「西廻り航路」開拓により、これまでより遥かに効率的かつ大々的に、米を運べること…
江戸初期の豪商に、河村瑞賢という人がいる――彼は凄い男なのである。南伊勢の、さほど豊かではない農家の長男に生まれるが、13歳で江戸に出ている(跡継ぎのはずなのだが、江戸に出てきた理由ははっきりしていない)。江戸では、まずは車力になったそうで…
前記事で述べたような理由で、大津馬借はそれなりの規模を持つ馬借集団として、江戸期も存続し続ける。彼らは京津街道の物流の担い手となるのだ。なおこのルートの物流の担い手として、他にも伏見の車借らがあげられる。1704年には京津街道を行き交う荷…
戦国が終わり、世の中は織豊政権による中央集権体制となる。天下が完全に鎮まるまでは、「関ヶ原」や「大阪の陣」など、まだ幾つかの大戦を経なければならなかったが、少なくともこれまで各地で多発していたような、小勢力同士の泥沼の小競り合いはなくなっ…
京へ続く三大街道は、京津街道・竹田街道、そして鳥羽街道である。この三街道は、戦国期には日本最大の人口を抱える大都市・京へと続く、物流の大動脈であった。うち鳥羽街道は、巨椋池に荷揚げされる米などの運搬によく使用されていたのは、先の記事で見た…
早くに衰退してしまった白河車借に比して、鳥羽車借はなんと明治まで続いている。両者の違いは何であったのだろうか? 六勝寺と同じように、廃れてしまったのは鳥羽離宮も同じなのだが、鳥羽には大きな利点がひとつあった。灌漑によって埋められてしまって、…
車借の二大拠点といえば、鳥羽と白河である。細かく見ていけば、小規模な車借拠点は各地にあるのだが、ここまで大規模なのはこの2か所だけだ。鳥羽と白河において、なぜここまで車借が発展したのだろうか? そもそも効率的には、馬の背に乗せて物を運ぶより…
小荷駄で荷を運ぶ「馬借」に対して、牛に車を曳かせて運搬する業者のことを「車借」と呼んだ。有名なのが「白河車借」、そして拙著にも出てくる「鳥羽車借」である。 坂本の馬借の起源が「馬の衆」といわれる、日吉社の神人たちだったとすると、車借の起源は…
さて前記事で見たように、1428年9月18日の馬借蜂起を契機とし「正長の土一揆」が発生したわけだが、実はその1か月前の8月に近江国において、徳政(借銭棒引き)が行われていたことが複数の記録に残っている。 近江国におけるこのケースだが、そもそ…
さて1428年に、日本史上初の大規模な土一揆・「正長の土一揆」が発生する。清水克行氏はその著作「室町社会の騒擾と秩序」において、そもそもこの土一揆が発生したきっかけは、叡山と北野社の勢力争いがあったのではないか、と推測している。 「天神さん…
叡山にしてみれば「強訴の尖兵」という暴力装置として、大変に利用価値があった馬借たちであったが、しかし彼らは必ずしも山門に絶対的に忠実な存在だったわけではない。「命令されたから暴れる」わけではなく、彼らなりの「暴れる理由」があり、その要求を…
1603年にイエズス会宣教師らが作成した、日本語をポルトガル語に訳した「日葡(にっぽ)辞書」というものがある。キリスト教を布教するためのツールとして、宣教師らが作成したものだ。 当時の日本には、もちろん「百科事典」といったものが存在しなかっ…
馬借に関する直接的な史料が残っているのは、前記事で述べた「浦・山内馬借」に関するものであるが、「存在感の有無」という形で最も有名なのは、やはり「坂本の馬借」である。 坂本そして大津の町は琵琶湖畔にあり、湖運を通じて多くの物資がこの港町に集ま…
日本の陸上運送の主力は、江戸時代までは馬である。地形が険しく道の狭い日本においては、馬の背に荷物を括りつけて運ぶ、小荷駄が発達した。中世において、このように馬を使って荷を運ぶ運送業者のことを「馬借」という。 馬借・車借という職能の設立はそこ…