根来戦記の世界

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中世の運送業者・馬借と車借~その⑮ 近世の鳥羽車借 その栄光と終わり

 室町期の往来物に「大津坂本馬借・鳥羽白河車借」と謡われた、中世の運送業者たち。江戸期に入って坂本馬借は衰退し、大津馬借は繁栄する。白河車借は既にない。最後のひとつ、鳥羽車借はどうなったのだろうか?

 鳥羽車借の全盛期は、織豊期から江戸初期にかけてのようだ。1568年には、信長の命で御所修理のための木材数万石を運搬している。1578年には秀吉による播磨侵攻を受けて、大量の米を鳥羽より大物の浦戸へと運搬しており、その補給にひと役買っている。また家康の為にも木材・石の輸送を行っている。

 さて大坂の陣が終わり、ようやく平和な世が到来する。京の人口は増大し、米の消費も急増する。鳥羽車借の御用の主力は、やはり西国からの廻米であり、西国でとれた米は、続々と京へと運び込まれていったのである。日本有数の消費人口を抱える、この京という巨大都市が近くにある限り、米の輸送という仕事がなくなるとは思えず、繁栄はこのまま続くだろう。そう思われていた――1614年の高瀬川の開削までは。

 この高瀬川の開削を手掛けたのは、京の豪商・角倉了似である(この人も凄い人である。この運河開削の他、安南貿易なども手掛けている、優れたプロジェクトリーダーであった)。高瀬川開削により、京と伏見を直接結ぶ新たな水運ルートが開けたのである。

 高瀬川の水深は1mもなかったから、船荷はわざわざ喫水の浅い高瀬舟に積み替える必要があったが、それでも牛車で運ぶよりはコストは遥かに安くついた。この新たな大動脈たる運河の活況によって、鳥羽街道を陸運する荷は大幅に減ってしまったのである。

 ただ、悪いことばかりではなかった。高瀬川開削とほぼ同時期に、京へと続く三大街道(京津・竹田・鳥羽の3つ)の大規模改修が開始されたのだ。この頃から過去記事で少しだけ紹介した、「車石」が街道に敷かれ始めることになる。たかが車石、と馬鹿にしてはいけない。街道にはこの車石が延々と連続して敷設されていた、と記録にある。これは要するに、貨物用の線路なのである。

 鳥羽街道における車石敷設は、最終的には南は横大路あたりから、北は西九条の羅生門あたりまで、途切れることなく敷き詰められていたらしい。なおこの車石は単線であった。ということは一方通交であったということである。どうも午前と午後で流れを変えていたようだ。明治になっての記録であるが、お雇い外国人・ツンベルグが記した「日本紀行」には、竹田街道における例として「車借の列は、午前は北行き・午後は南行きに進む」とある。鳥羽街道でも同じだったと思われる。

 

京都・山科は日ノ岡峠にある、車石広場に展示されている「車石」。このような車石が延々と線路のように敷設されていた。ここまで大々的に車石敷設が成されていたのは、京郊外の三街道だけであった。なお峠の高度を下げる、切り崩し工事なども行われた。

 

京都市歴史資料館蔵「花洛名勝図会」より。線路のように敷かれた、車石上を進む牛車。なお竹田街道の例であるが、車石は街道の横に敷かれており、人が通る道の方は一段高く造成されていた。歩道の排水を容易にし、泥濘化を防ぐためであったと思われる。歩道と車道が完全に分離された結果、牛車の暴走による交通事故なども発生しなくなっただろうから、一石二鳥であった。

 これらの街道の車石敷設事業は一気に成されたわけではなく、200年近くかけて行ったものと見られており、最終的な完成を見たのは19世紀になってからである。いずれにせよ鳥羽街道は改修され、陸路の交通の便も格段に良くなったわけである。

 しかし鳥羽の車借の商売敵は高瀬川だけではなかった。秀吉が行った淀川・宇治川の改修により、新たに横大路村という「同業他社」がライバルとして勃興してくるのだ。

 この横大路、かつては鳥羽の影響下にあった小さな村だったのだが、運河改修により水運の便が良くなったおかげで、新たな荷揚げルートとして急速に発展したのである。1660年には独自の車借問屋ができるほど活況を呈しており、1690年には下鳥羽の車借と運搬上のことでトラブルを起こしている。

 これらの複数の要因により、鳥羽の車借の繁栄は少しずつ輝きを失っていく。更に打撃だったのが、1788年の「天明の火災」を契機とした、規制緩和の波である。京の8割が焼けたと伝えられるこの火災からの復興のために、人力で曳く大八車による日雇いが、運送業に参入してくることになったのだ。

 2~4人の人力で引くことが可能な大八車は、17世紀後半あたりから使用され始め、既に江戸市中においては、その利便性から牛車を駆逐していた。京においても、復興が終わってからも引き続きこの新しい運送形態は認められることになり、これに一気に客を取られることになる。江戸から遅れること約100年のことであった。

 記録によると、この辺りから鳥羽の問屋の軒数や、所有している車の総数が減少し始めている。鳥羽の車借はその勢力を徐々に弱めながらも明治維新を迎え、明治10年まで細々と存続していくことになるのだ。

 その後、鳥羽街道は新たに改修整備され、役割を終えた車石は補填もなされず放置の状態となり、その多くが石垣として転用されるか、遺物として地中に埋もれることになった。鳥羽に限らず、三大街道の跡地の地中からは、工事現場の際に今でも車石が出てくることがあるそうだ。(終わり)

 

<この章の主な参考文献>

・洛中洛外の群像/瀬田勝哉 著/平凡社

室町文化論考/川嶋將生 著/法政大学出版社

・下級貴族たちの王朝時代 「真猿楽記」に見るさまざまな生き方/繁田信一 著/新典社

・日本中世の百姓と職能民/網野善彦 著/平凡社ライブラリー

・中世寺院社会と民衆~衆徒と馬借・神人・河原者/下坂守 著/思文閣出版

・土民嗷々~1441年の社会史/今谷明 著/創元ライブラリ

・室町社会の騒擾と秩序〔増補版〕/清水克行 著/講談社

・牛車で行こう!平安貴族と乗り物文化/京樂真帆子 著/吉川弘文館

・牛車/櫻井芳昭 著/法政大学出版局

・新修大津市史 第二巻(中世)・三巻(近世前期)/大津市役所

今津町史 第三巻 近世編/今津町史編纂委員会

滋賀県の歴史/原田敏丸 渡辺守順 著/山川出版社

・未開放部落の歴史と社会/奈良本辰也 著/日本評論社

・商人を越えた日本の偉人 河村瑞賢/南伊勢町教育委員会 

・その他、各種論文を多数参考にした