根来戦記の世界

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旅行記~その③ 長篠の戦い 「設楽原歴史資料館」を見学

 半年ほど前のことになりますが、息子と2人、長篠城と設楽原古戦場に行ってまいりました。今更ですが、その時の内容を紹介したいと思います。

 その前に、「長篠の戦い」についての基礎知識を。武田氏に関しては近年、平山優氏をはじめ、黒田基樹氏、丸山和洋氏らによる優れた研究が成されています。「長篠の戦い」に至るまでの武田・徳川両家の動きを、平山優氏による著作「徳川家康武田勝頼」から見てみましょう。

 1574年頃より、武田勝頼による東美濃遠江侵攻が始まりました。これにより、家康は領国の30%を失うという痛手を受けます。当時、単独では徳川家は武田家には勝てない、というのが彼我ともに共通した認識でした。

 これに危機感を覚えた岡崎衆らは、武田家と結び、家康に対するクーデターを計画します。その首謀者らは岡崎奉行3人のうち、大須弥四郎・松平新右衛門の2人、そして家康の長子・信康の家臣である小谷・倉地・山田ら、そして信康の守役にして家老の石川修理亮らでした。

 なお岡崎衆のリーダーである信康自身は、このクーデターには関与していなかったようです。つまりは岡崎衆である信康家臣団中心メンバーが、勝頼と内通し、家康・信康親子の排除を図ったクーデターであった、ということです。そして岡崎衆には強力な味方がもう一人いました。それは家康正室・築山御前です。

 信玄公の代より調略の術にも長けていた武田家は、スパイである「口寄せ巫女」を、岡崎にいる築山御前の懐にまで入れていたようです。どうも築山御前は、この巫女の神降ろしによる予言――「勝頼と結べば、信康は天下をとるだろう」という予言に篭絡されていたようです。しかしクーデター衆は家康と同時に、信康の排除も図ろうとしていたようなので、彼女は騙されていたことになるのですが。いずれにせよ、家康の正室が勝頼に通じていたということになるわけで、武田家の調略能力恐るべし、ですね。

 1575年4月12日、大須らのクーデター決行に合わせて、勝頼は軍勢を動かしました。諏訪から南下し、遠江へと軍を進めたのです。勝頼の狙いが分からない家康は、浜松城から動けません。岡崎衆が城を乗っ取るには絶好のタイミングでした。

 既に武田家の先方部隊は、本隊が動く前の3月下旬には、岡崎城から直線距離で20kmほどにある足助城を囲んでおり、4月にはこれを陥落させています。しかしあと一息で岡崎城というタイミングで、密告によりクーデター計画が発覚してしまい、大須らの一派は一網打尽にされてしまったのです。

 当初の目的を達することができなかった勝頼は、攻撃目標を吉田城へと変更します。ここを落とせば、家康の領地を東西に分断できるのです。その動きを察した家康は、急ぎ吉田城へと向かいます。諜報活動で「家康動く」の報を受けた勝頼は、これを捕捉・殲滅すべく軍を急行させますが、二連木城攻略に手間取っている間に、家康の吉田入城を許してしまいます。

 戦力が強化されてしまった吉田城の攻略をあきらめた勝頼は、代わりの目標を探します――それが長篠城だったのでした。つまり長篠城攻略は、まず岡崎城におけるクーデター占領が失敗したので、吉田城攻略に作戦を変更。そこに家康が来るというので、これの捕捉・撃破を期するもやはり失敗。三度目の目標となった末に実行された作戦だったわけです。

 以上が「長篠の戦い」に至るまでの、最新の基礎知識となります。

 さて東京に住んでいる身としては、長篠は相当にアクセスが悪い場所にあり、とても日帰りではいけない場所にあります。なかなか訪れる機会がなかったのですが、たまたま所用で名古屋に泊まる用事があったので、これを機会に城好きの息子と2人で訪れたわけです。

 ブログ主は車を持っていないので、名古屋から電車で向かいます。名古屋駅を朝の6時に出て、長篠駅についたのは8時半でした。長篠駅から城までは徒歩で10分ほど。まずは城跡にある「長篠城址史跡保存館」オープンを並んで待ち、9時の開館と同時に入ります。

 なぜ並んでまで入ったかというと、レンタサイクルを借りたかったからです。長篠城から設楽原までは歩いていくのは遠すぎるうえ、坂道が多い。となると、レンタサイクルになるわけですが、電動機付きのレンタサイクルの台数は限られており、早いもの順なのです。結果的には並ばなくても借りられたのですが、念のため・・・

 無事に2台を確保。そのあとゆっくりと「長篠城址史跡保存館」を見学します。長篠だけあって、鉄砲の展示が充実していました。目を引いた展示をいくつか紹介します。まずは火縄銃から。

 

※12月25日追記:すみません、半年前の話だったので大きな勘違いをしておりました。以下の写真展示はすべて「長篠城址史跡保存館」のものではなく、「設楽原歴史資料館」のものでした。「設楽原歴史資料館」は設楽原の近くにある資料館で、鉄砲の収集と展示にかけては日本随一の資料館です。ブログ主は「長篠城址史跡保存館」、そして長篠城を見学した後、ここに行っています。なので時系列がおかしくなりますが、直すのもなんなので、このままにしておきます。

 

一番驚いたのは、この巨大な大鉄砲。全長なんと3m32cm、口径は40cmで対戦車砲レベルですね。以前の記事で「慶長大火縄銃」を紹介したことがありますが、なんとそれ以上のスペックです。

堺市博物館蔵「慶長大火縄銃」についての記事はこちらを参照。

 

上記の大鉄砲の説明書き。戦闘用ではなく、なんと狩猟用だったのではないか、とのこと。ここまで大きいと、確かに実戦向きではないかもしれません。やはり以前の記事で、江戸期には大量の狩猟用鉄砲が全国にあったことを紹介しましたが、それが裏付けられる内容でもあったので嬉しかったです。

 

日本における、戦国期から江戸期にかけての鉄砲所有数については、こちらの記事を参照。

 

これは初めて見ました、珍しい。右はなんと朝鮮製の鉄砲です。 銃身に丸に武という象嵌のマークがあるのが、朝鮮製の鉄砲の特徴らしいです。銘には「治貴同練有吾」とあります。いつの時代の物なのか、どういう経緯で所蔵することになったのでしょうか。

こちらは東南アジア製の火縄銃。ポルトガルの植民地であったマラッカとゴアには火器の工廠があったとあるから、そこで製造されたものかもしれません。

こちらは木製大筒。木製だと砲身が持たずに破裂してしまうから、縄を巻いた上、漆を塗って強化してあります。説明書きには「ほぼ用を成さなかったであろう」とあります。もしかして、これも狩猟用ないし害獣対策の脅し筒だったのかもしれませんね。

設楽原古戦場で発掘された火縄銃の玉。左はタイのソントー鉱山製の鉛で、右は中国華南産の鉛になります。これも過去の記事で紹介しましたが、西国の大名が使用していた鉄砲玉の原料である鉛の多くは、海外貿易で入手した他国産のものでした。つまりはこれらの玉は、織田家の鉄砲隊が放ったものということになります。なお長篠周辺には鉛を産する「陸平鉛山」があり、実際に設楽原古戦場において、陸平産の鉛玉が発見されたそうです。海外貿易に縁のない武田家は鉛の入手に苦労しており、青銅製の玉を使用するほどでしたから、ここの鉛は喉から手が出るほど欲しかったでしょう。

 

 「設楽原歴史資料館」は鉄砲の収集と展示にかけては随一の資料館だそうで、流石のコレクションでした。いろいろ発見もあり、個人的には大満足だったのでした。次回の記事は、長篠城籠城戦についてになります。(続く)