1575年4月から本格的にはじまった、今回の勝頼の遠征の目的は「クーデターに乗じて岡崎城を占領する」というものでした。もし成功していたら、徳川家を滅ぼせたかもしれないレベルの大戦果でしたが、それが失敗した今、勝頼としては手ぶらで帰るわけには行けません。そこで攻撃目標を、吉田城攻略&家康の捕捉・殲滅に変更するも、これも失敗。勝頼は仕方なく、第三の目標として長篠城に目を付けたのでした。
さて当時の長篠城の城主は奥平信昌です。元々、この山深い奥三河の地を制していたのは、作手城の奥平氏、長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏の三氏で、彼らはひとくくりに「山家三方衆」と呼ばれていました。
徳川と武田の国境にいた彼らは、状況に応じて寝返りを繰り返す、という生き方をせざるを得ませんでした。基本的には三氏は連携して行動しており、寝返る際も一緒に寝返っていたようです。1571年以降は、彼らは武田方についていました。この頃はまだ信玄が存命で、飛ぶ鳥を落とす勢いでしたから、当然の選択でしょう。
しかしこの「山家三方衆」の団結にヒビが入る出来事が起きます。三氏の間で所領のトラブルが発生したのです。1573年7月、最も不利な立場であった奥平氏が、勝頼に公正な裁定を訴えたところ、帰ってきた答えは「山方衆の間で解決せよ」というものでした。勝頼としては、「山家三方衆」の独立性を尊重せざるを得なかったわけです。
しかしこれに失望した奥平家は、急速に徳川家に近づいたのです。そして家康もまた自らの娘である亀姫を、当主・奥平貞能の跡継ぎである信昌に娶らせる約束をする、という破格の扱いで応えたのでした。これは相当身分違いの婚姻でしたが、奥三河における帰趨が徳川家の行く末を左右することを、家康は正しく見抜いていたのでした。
さて、もともと長篠城は菅沼氏のものでしたが、信玄が死去した隙をつき、1573年9月に家康が攻略、ここを守っていた菅沼氏を退去させていました。その代わりに家康が守りを任せたのが、新たに娘婿となった奥平信昌だったのです。
1575年5月1日、勝頼率いる1万5000の武田軍が、この長篠城を囲みます。長篠城を守る奥平家の兵力は僅か500程度であった、と伝えられています。火矢により兵糧庫は焼失。多勢に無勢、武田軍の猛攻に残すところは本丸と野牛曲輪のみ、というとこまで長篠城は追い詰められてしまったのでした。
援軍なしで持ちこたえることは、もうできそうにありません。信昌の気持ちは、降伏開城へと大きく傾きます。
そんな中ひとりの男が、援軍がどこまで来ているのかを探るため、決死行を志願します。この男の名こそ、かの鳥居強右衛門(とりいすねえもん)です。各種の記録に彼は軽輩であった、とあるので武士ではなく足軽であったと思われます。5月14日の夜、強右衛門は闇夜に紛れ包囲網の外に出ることに成功、見事城外へと脱出したのでした。
15日の朝、長篠城から5~6kmほど離れた雁峰山にて脱出の成功を知らせる狼煙をあげたあと、彼は岡崎へとひた走ります。75km離れた岡崎にその日の午後にはたどり着いた、とあるので、計算すると実質8~10時間で75kmを走破、つまり時速約7~8kmで駆け続けた計算になります。現代の平均的な日本人マラソンランナーが時速9kmなので、相当なペースです。
岡崎に3万を超える援軍が来ていることを知った強右衛門は、家康と信長に面会した後、その足で再び長篠城へと戻ります。城は陥落寸前、援軍が近くまで来ていることを、何としても知らなければいけないのです。16日の早朝に再び雁峰山にて狼煙をあげた、とあるので、ほとんど休みなしで戻ったということになります。帰路は馬を借りたような気がしますが、それにしても凄まじい体力ですね。
狼煙をあげた後、強右衛門は城内に戻ろうと試みるも、武田軍に捕まってしまいます。そして「城内に投降を呼びかければ、家臣として召し抱える」という勝頼の命に従ったふりをして、援軍が近くにいることを城内に大声で知らせますが、見せしめのために磔にされてしまったのでした。
強右衛門の心意気に感動した信昌と城兵たちは、信長・家康連合軍が来るまでの2日間、見事に攻城戦に耐え抜いたのでした。
次回はいよいよ「長篠の戦い」の舞台である、設楽原古戦場へ向かいます。(続く)