根来戦記の世界

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日本中世の構造と戦国大名たち~その⑫ 織田家の場合・信長の革新性とその中央集権度

 シリーズの最後を飾るのは、みんな大好き織田信長である。彼の革新性については古くから定評があるのだが、最近ではそれを否定する方向で研究が進んでいるようだ。確かにこれまでの信長像は、「中世の破壊者」だとか「革命的な天才児」だとか、些か持ち上げすぎであった感は否めない。

 最近の研究ではっきりと否定されているのは、まずは「楽市楽座の発明」。信長もやったのは間違いないが、既にその18年前の1549年に六角氏が「石寺新市」に対して楽市楽座令を出している。同じ文脈で語られるのが「座の否定」。これもかつて有名であったが、そこまで座を否定していなかったことも明らかになっている。実際、日本一の商業都市であった京であるが、信長が征服した後も多くの座は長く続けられていたことが確認されている。

 狭義を呈されて最も論議を呼んでいるのが、「信長は、本当に天下を指向していたのか」という問題である。彼が「天下布武」という言葉を使ったのは有名だが、この天下は畿内のことを指していたに過ぎない、というものだ。そうなると信長の目指した「天下布武」とは、日本全国の統一を指すのではなく、逆に幕府や朝廷を温存し、京都を中心とした畿内に平和をもたらそうとしたものだ――ということになる。

 統治体制に関しても、従来の戦国大名とそう変わらないのではないか、という見方がある。これまでの記事で、戦国大名の「支城領主の領域支配」について述べてきた。戦国大名は直轄地を増やすことはせず、旗下の一族や譜代の重臣・有力国衆などに一定の支配領域を任せていた、というものである。

 では実際に織田政権下ではどうであったかというと、構造的にはやはり同じに見えるのである。例えば織田家重臣柴田勝家であるが、彼は対上杉の軍団司令官として加賀国を信長より与えられ、その地の領域支配を任されていた。加賀における徴税権・軍事動員などの諸権利は、柴田勝家の手にあったのである。

 こうした配下の領域支配に対して、例えば毛利氏は「両属家臣」という形で、北条氏は「所領をコントロールして宛がう」ことで、支城領主たちを制御しようとしていた。信長は同じようなことをしたのかというと、そういう努力はあまりやっていなかったようである――なぜか。著者が思うに、単純にそんな時間がなかったのではないだろうか。

 

信長の支配領域変遷のイメージ図。信長はよく裏切られたので、勢力範囲は時期によって大きく伸び縮みしているから、あくまでも参考程度である。図にしてみるとよく分かるが、尾張の一大名から天下統一まで、あと一歩のところまで支配領域を広げている。この間、わずか18年ほどである。前記事で紹介したように、北条五代が100年かけて広げた支配領域と比べると、如何にそのスピードが速かったかがわかる。やはり凄い男である・・・一緒に働きたくはないが。

 上記の地図を見て分かるように、織田家の支配領域は常に拡大し続けていた。そのスピードが早すぎて、両家がやっていたような緻密で確実だが、時間がかかるコントロール手法を取る暇がなかったのではないだろうか。勿論、信長自身の持つ個性も大いに関係しているだろう――そもそも配下に対して、そこまで気を配るような人間ではない。「細かいことも含めて、全部お前に任す。ただ、こちらから与えるタスクに失敗したら、許さん」これが信長のやり方であった。

 支配領域の権限を配下に任せていたからといって、織田家の中央集権度は低かった、と考える人はいないだろう。むしろ逆であって、信長が旗下の支城領主に対して有する支配力は、他の大名本家が有するそれとは、同列に並べて論じることはできないほど強いものだ。それを象徴するのが(昔から言われていることであるが)、「城破」・「検地」・「国替え」の3点セットである。

 まずは城破。信長は占領下に置いた国の城を容赦なく破壊した。確認できる限り最も早い例は、信長が上洛した直後の1568年のもので、伊勢において「国中の城々を破却」する命を下している。また石山戦争後にも「畿内にある諸城を大略破却」という命を下し、実際に大和においては郡山城を除いて国内の城は全て破却されている。こうした城塞というものは、ローカル勢力にとっては軍事拠点のみならず「統治の拠り所」であったから、それらを破却することによってローカル勢力である国衆らの力は大幅に削がれたのである。

 次に国ごとに検地をおこなう。過去記事で触れたように、北条家などでも行っていた自己申告制の差出検地ではあったが、畿内や越前などでもっと大々的に行っている。征服の過程で抵抗勢力を徹底的に叩き潰すのが信長のやり方だったから、検地は割合スムーズにいったようである。

 最後に頻繁な国替えである。例えば1581年、信長は配下の佐々成正を越中に、前田利家能登に国替えさせている。その際には、以前の知行は元より、有するすべての全財産と家族を伴っての入国、という根こそぎの国替え命令を下しているのだ。ここでいう全財産とは、利家が越前で7年過ごした際に苦労して関係性を造り上げた、「越前衆」つまりは配下の侍たちの本領をも指すのである。利家は自らに仕える者たちに、これまでの知行地を捨てさせ、代わりに能登において新たな知行地を差配しなければならない、ということである。

 これがどんなに大変なことか想像できると思う。武士がようやく苦労して得た知行地である。成正や利家、そしてその配下の者たちは、持っている資本をその土地に、人に、そして町造りにと多大に投資したはずである。それが鶴の一声で、縁もゆかりもない土地に国替えさせられるのだ。

 国替えに関して言えば、他の大名でも行ってはいるが、その殆どは小規模なものだ。勿論大きなケースもないことはない。例を挙げると、武田家における天神山城の小笠原氏がそうだ。居城・高天神城を勝頼に攻められて降伏開城した小笠原氏助は、その翌年に武田勝頼から替地として駿河国富士郡に1万貫を与えられ、この城には代わりに岡部元信が入っている。

 だがこれは特殊な事例であって、「長篠の戦い」で手ひどく敗戦した直後、武田家の体制の立て直しの一環として行われた非常処置であった。そもそも小笠原氏はほぼ全面降伏に近い形での降伏開城であったこと、対徳川家の最前線に位置する城であったから、小笠原氏が再び徳川家に転ぶのを警戒されたことなど、様々な事情があったケースなのである。

 だが信長ときたら、大々的に容赦なく国替えを命じるのだ。大阪方面軍として畿内を支配していた佐久間信盛に至っては、国替えどころか全ての権益を取り上げられ、追放されている。その後に入ったのが明智光秀であった。配下に対するこうした支配力の強さ、これは他の大名家とは明らかに一線を画している。これを今まで見てきたように、「家風の違い」だけで説明してしまっていいものだろうか。表面上は同じ領域支配であっても、中央集権度ではもはやレベルが違うと言っていい。

 織豊期の中央集権体制は、秀吉によって完成したというのが定説である。太閤検地と刀狩り――つまり土地に関わる中間搾取の完全排除と、兵農分離の徹底――などは、秀吉の手によって果たされたのは確かだ。だがその起点となる統治構造は、やはり信長が生み出したものといっていい。

 信長亡き後、秀吉・家康と天下人の座は移り変わっていくが、こうした構造自体は次の政権に受け継がれていく。変わりゆく社会構造、そしてそれに対応した統治システムが互いにフィードバックしあいながら発展し、近世の徳川幕藩体制へと至るのであった。(終わり)