新シリーズである――実はブログを開設した時からこの記事は用意していたのだが、根来衆関連のシリーズがひと段落ついたので、ようやく紹介できる運びとなった。「京の印地打ち」という小説を書く際に、戦国時代の京について色々調べたのだが、このシリーズではその際に得た知識を紹介してみようと思う。
まずは京の成り立ちについて。
平安期――桓武天皇の御代に、長岡京に代わる新しい都として「平安京」の建設が始まった。794年のことである。きちんとした都市計画に基づいて設計された都市で、モデルはお隣中国にあった大国、唐の首都・長安である。これを模して造られたまではよかったのだが、当時の日本の国力には大きすぎた。長安のちょうど4分の1サイズだったのだが、それでも広すぎて持て余してしまったのだ。
建設直後、というよりもその最中から既に、みやこの西半分の右京地域は水はけの悪さもあって、人が集まらなかった。また南北にも長すぎた。北には御所があったからいいとして、南門である羅城門は816年に倒壊、後に立て直されたが980年に再び倒壊、その後は再建されることはなかった。倒壊する前から、既に周辺は人気もなく荒れ果てた状態だったようである。藤原家などの有力貴族たちは御所の近く、みやこの北東部に集中して住むようになり、庶民たちもその周辺部に集住した。
特に鴨川の近くは水の便が良かったので、当初決められたみやこの範囲を越え、多くが川の両岸に住み着きはじめる。鎌倉期に入り承久の乱が鎮圧されたのちは、鎌倉幕府が朝廷を監視する機構として鴨川の東、今の六波羅密寺がある辺りに「六波羅探題」を置いている。このようにして、平安京の東側が栄えるようになったのである。
室町期に入ると足利幕府は鎌倉ではなく、みやこに拠点を置くことになる。足利将軍家の居宅は、現在の京都御所の北西部分にあり、室町通りに面して正門があったことから「室町殿」と呼ばれていた。(「室町幕府」の名称はここから来ている。)足利義満が大金をかけて造成し、贅を尽くしたこの屋敷は「花の御所」とも呼ばれていた。
このように当初は方形に設計された平安京であったが、その後の発展は計画通りにはいかず、まず水はけの悪かった西側が忌避され、東側が栄えた。次に北側に御所・公家宅、そして室町殿など政治を執る期間が集中してあったせいで、そこに人口が集中した。また庶民の生活の場として、鴨川沿いが発展していった。
まず室町時代までの京都は、このようなものであった。(続く)