根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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戦国時代の京都について~その① 都市計画に基づいて設計されたが、その通りには発展しなかった平安京

 新シリーズである――実はブログを開設した時からこの記事は用意していたのだが、根来衆関連のシリーズがひと段落ついたので、ようやく紹介できる運びとなった。「京の印地打ち」という小説を書く際に、戦国時代の京について色々調べたのだが、このシリーズではその際に得た知識を紹介してみようと思う。

 まずは京の成り立ちについて。

 平安期――桓武天皇の御代に、長岡京に代わる新しい都として「平安京」の建設が始まった。794年のことである。きちんとした都市計画に基づいて設計された都市で、モデルはお隣中国にあった大国、唐の首都・長安である。これを模して造られたまではよかったのだが、当時の日本の国力には大きすぎた。長安のちょうど4分の1サイズだったのだが、それでも広すぎて持て余してしまったのだ。

 建設直後、というよりもその最中から既に、みやこの西半分の右京地域は水はけの悪さもあって、人が集まらなかった。また南北にも長すぎた。北には御所があったからいいとして、南門である羅城門は816年に倒壊、後に立て直されたが980年に再び倒壊、その後は再建されることはなかった。倒壊する前から、既に周辺は人気もなく荒れ果てた状態だったようである。藤原家などの有力貴族たちは御所の近く、みやこの北東部に集中して住むようになり、庶民たちもその周辺部に集住した。

 

※間違って「金閣寺」を「銀閣寺」と表記していました。4月16日に修正しました。
現在の京の地図に、平安京の範囲を当てはめたもの。ご覧の通り、広大すぎる都市であった。南北に端から端まで歩くと5.2km、1時間以上かかる。北にあるひと回り小さい方形は、天皇が在所した大内裏である「平安宮」だが、これだけで東京ドーム約36個分の広さだ。平安期の日本の生産力と人口では、ここまで大きな規模の町は運営・維持できなかった。なお京の西半分を右京、東半分を左京と呼ぶのは、「天子は南面して政事を執る」という儒教の教えからくるもの。北に位置する大内裏から南を眺めると、西が右・東が左となる。

 

京都市蔵、平安京を再現した模型。西側が相当廃れているのが分かる。みやこの中央を貫く朱雀大路の幅は、何と85mである。あまりに広すぎたので、みな道を耕して畑を造り始める始末であった。ちなみに新鮮組の駐屯地で有名な壬生寺がある辺りが、ちょうどこの平安京のど真ん中、朱雀大路に面する場所にある。壬生寺を訪れたことのある人は、その後の京の発展が如何に東に偏ったかがイメージできると思う。

 

 特に鴨川の近くは水の便が良かったので、当初決められたみやこの範囲を越え、多くが川の両岸に住み着きはじめる。鎌倉期に入り承久の乱が鎮圧されたのちは、鎌倉幕府が朝廷を監視する機構として鴨川の東、今の六波羅密寺がある辺りに「六波羅探題」を置いている。このようにして、平安京の東側が栄えるようになったのである。

 室町期に入ると足利幕府は鎌倉ではなく、みやこに拠点を置くことになる。足利将軍家の居宅は、現在の京都御所の北西部分にあり、室町通りに面して正門があったことから「室町殿」と呼ばれていた。(「室町幕府」の名称はここから来ている。)足利義満が大金をかけて造成し、贅を尽くしたこの屋敷は「花の御所」とも呼ばれていた。

 

上杉本陶版「洛中洛外図」より「花の御所」。足利義満が造成したこの屋敷は、当時の天皇が住んでいた御所の倍の大きさがあった。工夫が凝らされた庭には、各地から献上された草木が植えられ、四季折々に花を咲かせたと伝えられている。次代の義持は、三条坊門に移り住んでしまったので一時荒廃したが、義教の時に再興した。残念ながら、現存していない。

 

 このように当初は方形に設計された平安京であったが、その後の発展は計画通りにはいかず、まず水はけの悪かった西側が忌避され、東側が栄えた。次に北側に御所・公家宅、そして室町殿など政治を執る期間が集中してあったせいで、そこに人口が集中した。また庶民の生活の場として、鴨川沿いが発展していった。

 まず室町時代までの京都は、このようなものであった。(続く)

 

※間違って「金閣寺」を「銀閣寺」と表記していました。4月16日に修正しました。
紫色の部分が、南北朝から室町期にかけて人が集住していた地域を示す。一条・二条を中心とする北部には、貴族の大邸宅や官庁施設が多かった。四条から七条あたりには庶民の住宅や店舗・工房が形成されはじめていた。かつてみかどが住んでいた、広大な大内裏「平安宮」は荒廃し、「内野」と称され農村化してしまい、鎌倉期には何と蕪の名産地になってしまっている。以降の内裏は室町殿があった近く、現在の京都御所辺りに移転して今に至る。