根来戦記の世界

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中世の運送業者・馬借と車借~~その⑩ 鳥羽車借の京への運搬ルート

 京へ続く三大街道は、京津街道・竹田街道、そして鳥羽街道である。この三街道は、戦国期には日本最大の人口を抱える大都市・京へと続く、物流の大動脈であった。うち鳥羽街道は、巨椋池に荷揚げされる米などの運搬によく使用されていたのは、先の記事で見た通り。

 拙著では「大路屋」の車借の列が、塩樽を上京に運ぶシーンを描いた。このシーンを元に、鳥羽の車借の列が京へと向かうルートを紹介してみよう――なお、本当に鳥羽車借がこのルートを使用したかどうかは分からない。あくまでもブログ主の想像である。

 下鳥羽にある「大路屋」を出発した車借の列は、まず鳥羽街道を北上していく。街道の横には京より続く加茂川が流れているが、その流れを遡るようにして進んでいくのだ。流れは途中で変わり、鳥羽街道を横切る形となる。川を渡るためには「小枝橋」を使用しなければいけないが、牛車はその上を渡らず、一旦道から外れ河原に下りてから川の中を徒歩渡りした、と近世の記録にはある。牛車は重かったから、橋が持たなかったのだろう。

 

昭和60年前後に撮影された小枝橋。近代に入って護岸工事が成されており、中世とは川の幅や流れ、そして道筋まで変わってしまっている。江戸期の小枝橋はもっと南側に架かっていたらしい。

 

「東山名所図」より。車借が牛を使って米俵を運んでいる。牛車の車輪の大きさが、人の背丈を超えているほど巨大なのがよく分かる。荷を積んだら相当の重さになっただろう。人通りの多い通りで子どもが轢かれて死ぬ、という交通事故もたまにあったようで、罪に問われた車力が島流しになった、という江戸期の記録が残っている。こうした車を作成するには、それなりの技術と費用がかかったようで、おいそれとは手に入るものではなかった。牛の飼育にしても同じである。

 ここを抜けてしばらくすると、京の七口のひとつ「東寺南口」に到着する。ここで決められた額の関銭を払わなければならないのだ。1404年の記録だが、「車別十銭文、旅人一銭、商人弐銭、馬三銭」とある。作中の世界はその151年後でインフレも進んでいただろうから、関銭はもっと高かったと思われる。

 拙著では、ここから次郎が車借たちの列に合流し、北上して京へと向かう。物語の中ではテンポを良くするために、大分端折ってしまっているが、もう少し細かくその旅路を見ていこう。

 関を抜けるとそこは九条だ。この辺りからは、石でできた車石(輪石とも)が発掘されることがある。凹状の石をレール代わりに、道路に2列配置するのだ。当時の九条は、半水生である水藍の一大産地になるほどの湿潤地帯だった。雨が降ったあとなどは、道がぬかるんで車輪がスタックしたと思われる。そういう事態になるのを防ぐため、こうした車石を設置する必要があったのだろう。

 発掘されている車石は全て江戸期のものである(車石に関しては、この後の記事で触れる)。木製のものもあったかもしれないが、いずれにせよ戦国期にこのようなレールが敷いてあったとは思えないので、牛車は苦労して進んだに違いない。

 湿地帯を抜けたら、大宮通りを北上する。大宮通りは幅も広く、車が通るには最適だったろう。しばらく進むと、右手に塀が現れる。日蓮宗の有力寺院のひとつ、本圀寺である。「天正法華の乱」の際、全ての日蓮宗の寺は破却され、京から追放された。帰還が許されたのが1546年になってのことである。作中は1555年の設定であるから、ここに建設されつつあった伽藍はまだ比較的新しく、活気のある門前町が形成されていたことだろう。

 そこを抜けると、下京の総構が右手前方に見えてくる。総構の外にも、ある程度は家屋があったと思われる。散発的に、というよりは小さな集落のような形だったはずだ。作中では車列の一部は分離して下京へ進むが、本隊はそのまま上京へと向かう。本隊は下京の総構えを右手に見ながら、北へ進む。すると一面の畑に出る。

 下京と上京、2つの京の間に出たのだ。室町後期から戦国期にかけて、2つの京はそれぞれ総構に守られていたが、その間にある二条大路から土御門大路にかけては構に囲まれておらず、閑散として人気がなく代わりに麦畑があった、とある。

 作中は旧暦の5月、現代の暦に直すと6月上旬だ。麦畑があったとするならば、冬麦の刈入れが終わったばかりかもしれない。この畑の中をしばし北に進み、よきところで東へ曲がる。通りを侵食して張り出していたであろう畑の中を苦労して進んでいくと、みやこを南北に貫く大動脈である室町通へと出る。

 南北に走る室町通は、上京と下京を繋ぐメインストリートである。この頃は道沿いに、家屋が立ち並び始めていたようだ。徐々に街並みが形成されつつあるのだ。この室町通りを北上すると、上京に至る。作中では端折っているが、上京の総構の中に入るには木戸をくぐったはずで、関銭を払う必要があっただろう。

 上京に入ったら、そのまま高倉にある塩の集積所を目指すが、ここは当時の御所の近くでもあった。御所の近くで(正確な範囲はよく分からないが)牛車に乗っていいのは、身分の高い人のみに許されていた特権であったらしい。車借の荷車が牛車として見なされていたかどうかは分からないが、もし車に乗っていた者たちがいたならば全員降りて、その横を歩いて進んでいたかもしれない。

 

現代の地図に1555年5月時点の京と、作中における車借の運搬ルートを重ね合わせたもの。大路屋は下鳥羽にある設定である。上京・下京の間には畑が広がっていたが、その範囲は不明なのであくまでイメージである。なお上記の地図中にある東寺であるが、今もこの地図で示したままの領域が、ほぼそのまま残っているのは驚きである。

 そして高倉にある塩場へと到着する。次郎たちの短い旅はここで終わりである。塩場には「淀屋」の番頭が待ち構えている。この「淀屋」は実在した大店で、京における塩の取り扱いを仕切る「六人百姓塩場」の座頭も勤めており、京ではかなりの有徳人として知られていた。(続く)