2024-01-01から1年間の記事一覧
時衆の戒が厳しかったことは先の記事で述べた。時衆の最高責任者「知識」は「阿弥陀仏の代官」という位置づけであったから、信者は絶対服従するのがルールで、これを「帰命戒」と称した。彼に対する服従の代償として、帰依した者は極楽往生が確約されるので…
時衆は全国に教線を伸ばし、2世・真教のころには時衆道場の数は100ヶ所にも及んでいる。これらの道場のスポンサーは、その殆どが武士たちであった。意外に思われるかもしれないが、時衆と武士の相性は実はとてもよかったのである。 真教の頃に確立した時…
日本には、奈良期頃から遊行僧というものがいた。いわゆる「聖(ひじり)」と呼ばれる人たちである。仏僧の格好はしてはいたが、きちんとした学識があったかどうかは怪しいものである。民間呪術の使い手でもあった彼らは、地方を回りながら祈祷・まじないを…
「専修念仏」や「他力」という概念を持ち込み、これまでの仏教に大変革をもたらした、偉大なる思想家・法然。彼の死後、長老であった信空が後継となったもののその後、浄土宗は数多くの派閥に分派してしまっている。 どんな宗派でも、開祖が亡くなった後は分…
五山に比べると曹洞宗においては、比較的参禅の気風は守られていたようだ。しかし室町中期以降となると、林下と同じように師弟の間で口訣伝授される「密参録」が流行してしまい、本来あった禅風は失われてしまう。このように閉鎖的な環境に陥ってしまうと、…
さて現代において最も寺院数の多い仏教宗派は何かというと、実は曹洞宗なのである。文化庁が発行している宗教年鑑によると、曹洞宗だけで1万4000を超えるのだ。次点が浄土真宗で本願寺派が約1万、3位が大谷派の約8000である。これまでの記事で紹…
次に禅寺における生活スタイルを見てみよう。禅僧たちは、基本的には僧房において集団生活を行っていた。彼らを率いるのは、既に悟りの境地にいる(はずの)師匠である。師と共に生活し、その一挙手一投足に注目し、そこから何らかの意味を見出すべく日々坐…
五山の禅僧には、宗教活動を行う「西班衆」と、寺院の経理や荘園の管理を担う職能集団の「東班衆」がいたことが分かっている。これはどんな宗派の寺院も一緒なのだが、巨大な寺院群を運営していく以上、このように役割を分担せざるを得ないのである。 例えば…
このように臨済宗は、室町幕府の下で大きく発展することになる。室町幕府は鎌倉以来の禅寺の「五山制度」をそのまま受け継いだが、この室町期に五山は官寺としての組織化が徹底して進むことになる。 一例として、室町幕府には「禅律方」という役職があった。…
弘安の役から18年後――鎌倉期も終盤にさしかかった1299年に、建長寺で入門試験が行われている。記録によると、この時の試験において上級でパスしたのは2人だけ、うち1人が夢窓疎石という僧であった。彼はこの時25歳、既に京と鎌倉の禅寺においてか…
これまでのシリーズで、仏教が如何にして日本社会に受容されていったか、そして2人の天才・空海と最澄の登場による平安仏教の興隆、更に鎌倉仏教の登場についてなどを紹介してきた。このシリーズではその後、南北朝から室町期において仏教各宗派はどのよう…
さて少し前の24年7月16日に、1日あたり230くらいの突出したアクセスがありました。これまでの最高値だったので、なんだろうと調べてみたら、Xからのリンクが急増していました。どなたかにXで記事のリンクを貼っていただいたようです。どの記事の…
ブログを開設してから2年4か月が経ちました。タイトルは2周年となっており、この記事は7月にUPする予定でいたのですが、継続中の仏教シリーズの腰を折るのもなんなので、ひと段落したところで記事をUPした次第です。 さて細々と続けている当ブログで…
なお服部氏は、1回目の侵攻「文永の役」に関しても、独自の説を唱えている。まず元軍の数に関してであるが、池内説3万以上に対して、服部氏は1万6500人ほど(高麗史による)としている。そして池内説では「博多に上陸した10月20日に戦いが行われ…
この記事では、前回紹介した服部英夫氏による著作「蒙古襲来と神風~中世の対外戦争の真実」の内容に基づいて、弘安の役の戦いの推移について紹介していく。 まず服部氏は、東路軍の進撃タイミングと進撃路に対して、以下のような説を唱えている――「通説では…
甲斐国身延山に引きこもり、著作に励む日蓮。この間、彼は大量の手紙を弟子や信者たちに送っており、断片的なものも含めると現存するものは600点にも及ぶとも言われている(ただし偽物も多いようだ)。一次史料が大量に残っているということは、その人物…
元は日本に対して、都合6回の使者を送っている(うち2回は本土までたどりつけず)。当初はガン無視を決め込んでいた鎌倉幕府であったが、さすがにそういうわけにもいかなくなった。こちらからも使者を送るなどの動きも見せているし、祈祷以外にもちゃんと…
大国・元の脅しに対して、徹底して無視を決め込んだ鎌倉幕府。しかし幕府も、必ずしも無策でいたわけではない。この時点で幕府がとった対策は「そうだ!寺社に祈祷してもらおう」というものであった・・・これを読んで、思わず脱力してしまった人もいるかと…
日蓮は焦っていた。なにしろ同じ鎌倉にいる、新義律宗を率いる忍性の勢いには凄まじいものがあったのだ。 彼が成し遂げたこと――鎌倉幕府のトップである、北条得宗家に戒律を授け、仏の教えの上での師となる――は、実のところ日蓮がしたくて堪らなかったことな…
浄土宗に深く帰依していた、その地の地頭・東条景信は、念仏宗を非難中傷する日蓮に対し、激しい敵意を抱く。景信による襲撃の恐れもあり、日蓮は故郷を離れ、一路鎌倉へと向かうのであった――というのが、現在の日蓮宗に伝わる公式ストーリーである。 しかし…
さて、叡尊が復興させた「通受」とは、どういうものであろうか。 戒律には多くのルールがあるのだが、大別すると3つに分けられる。「摂善法戒(善いことを成すための戒)」「摂衆生戒(衆生救済を目指す戒・要するに人々を救う戒)」「摂律儀戒(悪をとどめ…
日蓮に関しては、これまで数多くの著作が出ている。何冊か読んでみたが、最も客観性があって面白かった本が、日本中世史・仏教史学者である、松尾剛次氏の著した「日蓮・戦う仏教者の実像」である。以降の記事の内容の多くは、この本に書かれていることを参…
さて鎌倉仏教のトリを飾るのは、日蓮宗である。おなじみ日蓮が開いた宗派であるが、開祖の名がそのまま宗派になっているのは、この日蓮宗だけである(ただし江戸期から。それまでは法華宗といった。なのでこのシリーズでは、以降は法華宗とする)。そういう…
鎌倉仏教を奉じる教団の傾向として、旧仏教ほど「寄進された荘園」というものを持っていない、ということがある(一部例外はある)。彼らは中世に入って出現した新興勢力であったから、残されたパイであるところの「余った土地」が少なかったわけである。(…
前回の記事で、禅宗の教えの根本は「人は本来仏であり、生きることは悟りに向かって進んでいくことでもある」と紹介した。とてもポジティブな考え方なのであるが、これもまたどこかで似たような思想を聞いたことがないだろうか? そう、またもおなじみ「本覚…
禅系統の鎌倉仏教としては、前記事で紹介した栄西の臨済宗の他に、道元の興した曹洞宗がある。臨済宗との違いは何なのであろうか? 今回の記事は内容はなかなかに難しいので、書いているブログ主も自分の解釈が正しいかどうか、若干自信がない。致命的な間違…
禅宗を日本に持ち帰った栄西。しかし実のところ、他の宗派の例に違わず、禅の教え自体は、奈良時代から平安時代にかけて既に伝わっていたのである。例えば平安時代前期には、唐の禅僧・義空が皇太后・橘嘉智子に招かれて来日し、檀林寺で禅の講義が行われて…
栄西は平安末期~鎌倉初期にかけて活躍した僧である。備中国・吉備津神社の神官の家に生まれ、13歳で比叡山延暦寺に登り、かの地で天台宗の教学と密教を学んでいる。しかし彼は、貴族仏教化していた叡山に嫌気がさしていたらしい。中国の正しい仏法を学ん…
法然の浄土宗を皮切りに、道元・栄西・親鸞・日蓮など、鎌倉新仏教の宗祖らは、いずれも旧仏教サイドから弾圧された歴史を持つ。しかし一遍の時衆に関してはそうした例があまりない。これは何故だろうか? そのヒントが「一遍聖絵」に描かれている。前記事で…
信州小田切里にて行われた、初の踊り念仏。これを皮切りに、一遍らは踊り念仏を行うようになるのだが、まずは手探りといったところで、遊行先で必ず踊りが開催されたわけではなかったようだ。踊りそのものもまだ出来たばかりだったから、どのような手順では…