根来戦記の世界

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中世に至るまでの、日本における仏教とは~その③ 神仏習合と、奈良期の「南都六宗」について

 そんなわけで、この時期本格的に国政に仏教が入ってきたのであるが、今まであった日本古来の神道はどうなったのか。他国においてはこういう場合、今まで信ぜられていた宗教は破棄、ないしは上書きされてしまう場合が多いのだが、日本においてはそうならなかった。

 そもそも仏教が伝来した時から、日本の人々によって「神」と「仏」は、漠然と同じようなものとして信仰されていた。仏は「蕃神」つまり「外国の神」として捉えられていたのである。また仏教は初めはバラモン教、後にはヒンズー教が強かったインドで生まれ、発展していった宗教であったから、多神教的な味付けを加えられていたことも大きい。古代日本人の一般的な認識としては、あくまでも「外国の神ではあるが、八百万の神々のひとつみたいなもの」だったのである。

 仏教が日本に伝えられてきてからしばらくの間、こうしたなんとなく曖昧な状況が続いた。646年の「大化の改新」以降、律令制が制定される。律令制自体には、はっきりした仏教的思想は取り入れられていないが、仏教保護の動きは続いた。

 「壬申の乱」を制し、673年に即位した天武天皇は、一時期僧であったこともあり、仏教統制を強めると共に、地方への普及を図っている。741年には聖武天皇により、日本各地に国分寺と国文尼寺の設立が命ぜられる。この時できた、大和国における国分寺東大寺なのであるが、この東大寺に国家的プロジェクトとして巨大な廬舎那仏――つまり「奈良の大仏」が造られ、開眼したのが752年のことである。

 このように仏教の存在感がますます増してくるなかで、神仏の関係性にも変化が出てくる。それを端的に示すのが、この頃より見られるようになる「神宮寺」という種類の寺院である。これは神社の境内に付随して建てられた寺院や仏堂のことを指すのだが、考え方としては「人々を救う存在である仏が、神をも救う」というものである。神が仏にすがり解脱を求める、このような考え方を「神身離脱」と呼ぶ。また仏教には仏の教えを守る「八部」という護法善神がおり、これは先ほど述べた「仏教の多神教的味付け」のひとつなのであるが、こうした要素も影響しているものと思われる。

 神道の本山ともいえる伊勢神宮であっても、かつては「伊勢大神宮寺(逢鹿瀬寺)」という神宮寺が存在しており、そこには称徳天皇が寄進したという、高さ約5メートルの立派な仏像があったのである。(ただし流石に強い抵抗があったらしく、この神宮寺は伊勢神宮とは相当離れたところに建てられたうえ、早くに廃寺になっているのだが)

 神社にある「仏が神を救う(守る)」のが神宮寺だとするならば、これとは逆に寺院にある「神が仏を守護する」神社もあり、これを「鎮守社」と呼ぶ。奈良の大仏を造営する際、宇佐神宮がその成功を祈願しており、東大寺に八幡様を勧請してできた鎮守社が、東大寺近くに今も残る手向山八幡宮である。

 このように両者は互いに補完しあう関係性にあったわけだが、大勢としては寺の方が上位にあった。それを象徴するのが、かつて行われていた神前で祝詞を奏上するのではなく、経を唱える「神前読経」という仏事である。こうした動きは7世紀後半には始まっていたようだが、その逆の仏前で行われる神事はないのである。

 こうした実情を追認するように、曖昧であった仏教と神道との関係性を、教理上で整理する動きが出てくる。そこで10世紀頃に出てきたのが「仏・菩薩が、仮に日本の神の姿をとった」とする考え方である。このように神道を仏教の立場から理論的に説明する神道理論を「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」説と呼ぶ。この考え方に則ると、例えば「阿弥陀如来」の垂迹は「八幡神」となり、「大日如来」の垂迹は「伊勢大神(アマテラス)」となる。つまり各種の仏と神との融合が図られたのであった。

 こうして「神仏習合」という、日本独自の宗教制度?が出来上がったのである。この奇妙な制度は、以後日本においては江戸時代が終わるまで、1000年に渡って続くことになるのだ。

 

江戸期までは日本全国、多くの神社に見られた神宮寺だが、明治の神仏分離令によって、殆どが破却されてしまった。広島の厳島神社の隣には、かつて神宮寺であった大願寺が今も残っている。当時の神仏習合がどのようなものかよく分かる例として、昔の厳島神社への参拝者は「まず大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、寺の大風呂で身を清め、僧坊で休憩、着替えをして嚴島神社に参拝した」そうである。またこれとは逆に、寺を守る鎮守神が残っている例として有名なのが、画像にある奈良の宝山寺である。由緒ある寺で今も賑わっており、参詣客が行き交う参道には石灯籠が立ち並んでいる。更に先を歩いていくと、しめ縄のかかった巨大な鳥居が出迎えてくれるのだ。ただし宝山寺の聖天堂に祀られている鎮守神は、ヒンズーの神・ガネーシャが元である八部の歓喜天であり、「本地垂迹」の考えに則った日本の八百万の神ではない。それ故に、神仏分離令の影響をあまり受けなかったものと思われる。

 

 このような経緯で神道との共存を果たした日本仏教であるが、肝心の仏教の教えそのものは、奈良から平安期にかけて、どのような発展を遂げたのだろうか?

 飛鳥期に入ってきた大乗仏教は、新しい宗教であると同時に「総合文化芸術」的なものとして捉えられていたのは、先の記事で述べた通り。奈良期には、その中でも特に学問的な部分が発達した。奈良期のこうした学問仏教を「南都六宗」と呼ぶ。

 六宗とは、三論宗成実宗法相宗倶舎宗華厳宗律宗の6つを指すが、これらはそれぞれ独立した「宗派」というよりも、「学派」と表現したほうがいい関係性にある。奈良期における仏教は「一寺一宗」ではなく、1つの寺で複数の宗派が教えられているのが普通であった。そもそも「南都六宗」という呼び名も、当時東大寺に在籍していた宗派の数からきているのだ。

 今回の記事では、それぞれの学派の教理についての解説をするつもりは(能力も)ないが、成実宗倶舎宗律宗の3つは戒律を重視する部派仏教系、三論宗法相宗華厳宗の3つは大乗仏教系であったようだ。また最澄に言わせると、6つの中では華厳宗だけが経に基づく経宗、つまりは仏陀の説いた経典に基づく教義で、残りの5つは論と律に基づく学団、つまりは後の世の論者らが注釈・解釈した教義であるとのことである。

 それぞれ時期によって流行り廃りがあるが、この6つの中で盛んだったのは、華厳宗法相宗である。東大寺にある「奈良の大仏」の正式名称は「廬舎那仏」であるが、これは華厳宗の経典でいうところの仏の姿なのである。東大寺はのち、華厳宗の総本山となる(ただし他宗の兼学も続けられた)。

 東大寺の隣にあった興福寺は、のち法相宗のみを修学する一宗専攻の寺となる。興福寺藤原氏の氏寺であったので、その富と権力は法相宗の教理・学問面をよく支えたのである。更に中世に入ると、興福寺は大和一国を支配下に置く強大な寺社勢力として栄えていくことになるのだ。

 

1760年頃に描かれた「春日興福寺境内図」。地図の上半分が春日大社、下半分が興福寺である。両社を併せた境内の広さは、相当なものだったことが分かる。寺院と神社の神仏習合には色々なパターンがあるが、興福寺春日大社は共に藤原氏が開いた氏寺・氏社であった関係性から早くから一体化され、10世紀ころからは「春日興福寺」と呼ばれるようになる。平安から室町期において寺社勢力は盛んに「強訴」を行うが、比叡山延暦寺が神輿を使用したのに対して、興福寺は春日社から神霊を移した神木を使用していた。春日大社では現在でも、1月2日に「日供始式並興福寺貫首社参式」という行事を伝統の一環として行っているが、これは興福寺の僧により神前読経が行われるという、今ではあまり見られない珍しいものなのである。また興福寺は京の祇園社(八坂神社)も末社として支配していたが、10世紀ころに勢力を拡大させた延暦寺に、その支配権を奪われてしまう。

 

 国家と仏教が強く結びつき、その庇護のもと仏教の教理研究は大いに進んだ。しかしながら一般の民衆とは乖離があった、と評されているのがこの時代でもあった。この頃の仏教は、宗教と呼ぶにはあまりにも学問的側面が強すぎて、庶民を救うものではなかったのである。(続く)