前回の記事で、禅宗の教えの根本は「人は本来仏であり、生きることは悟りに向かって進んでいくことでもある」と紹介した。とてもポジティブな考え方なのであるが、これもまたどこかで似たような思想を聞いたことがないだろうか?
そう、またもおなじみ「本覚思想」である。この本覚思想、以前の記事で法然の「専修念仏」を曲解した考え方との類似性を指摘したことがある。スタート地点は違えど、共に「修業は不要だから、怠けてもいい」という着地点に至ってしまった考え方である。堕落に通じるロジックとして悪用されてしまったわけであるが、禅宗のこの考え方もまた例外ではなかった。人は易きに流れがちな生き物なのである。
どんな思想からでも堕落に通じる抜け道を、人は見出すものである。本覚思想と専修念仏、それぞれの思想は如何にして捻じ曲げられたのだろうか。そのロジックは上記の記事を参照。
禅には「平常無事」という言葉がある。これを「人は本来、仏であるから何もしなくてよい」という意味に曲解して、ただのんべんだらりと生きているだけという、堕落した生活を送る禅僧が中国には多数いたのである。
大陸を見聞中に、中国各地でそうした禅僧たちがいるのを見た道元は、これを何とかしなければならない、と考えたに違いない。そこで道元が新たに主張したのが、この「只管打座」という考え方であったのだ。
道元のこの考え方によると、座禅という行為そのものが、これまでの禅宗のものとは意味合いが変わってくる。例えば臨済宗においては、座禅する際には師から与えられた公案に対し、考えを巡らすことが多い。つまりあくまでも、座禅は悟りに至るまでの手段でしかないわけだ。
しかし曹洞宗にとっての座禅は、何も考えずにひたすら無心で行うものである。そして悟る状態を維持するのに不可欠であるということは、座禅は悟りを得るための単なる手段ではなく、「仏として」不断に行うべきものである、ということになる。この考え方を進めていくと、両者はもはや切り離すことができないものであり、座禅そのものが悟りの体得、つまりイコールであるということになる。
1227年に大陸から帰ってきた彼は古巣である建仁寺に入るが、「三学兼修」を標榜していたこの寺の在り方は、もはや道元にとって満足できるものではなかった。30年には京・伏見の極楽寺に引っ越し、その片隅で暮らすことになる。そこで自身の考えをまとめるため、著作に励んでいる。33年には同地に興聖寺を開き、そこを拠点とし自らの教えを広め始める。だが、すぐに延暦寺からの弾圧を受けることになるのだ。
これはなぜかというと、道元の元にあの達磨宗の禅僧らが次々と入門したからである。一代の英僧・能忍亡き後、達磨宗は衰退する一方であった。同じ臨済宗であったにも関わらず、栄西は達磨宗を異端視していたから、達磨宗の禅僧らは建仁寺に行くのは抵抗があったのであろう。一方、道元は宗派を興していなかったから(自らの教義こそが絶対唯一と考えていたので、その必要性を感じていなかったようだ)、彼らのよき受け皿となったのである。
しかし比叡山や興福寺にしてみると、達磨宗は不倶戴天の仏敵である。禅僧が増えるのはいいとして、それに比例して旧仏教サイドからの圧力も強くなってくる。そして43年には、興聖寺は叡山の僧兵どもの焼き討ちにあって全焼してしまうのだ。同年、道元は信者であった地頭・波多野義重の招きで京を去り、越前にて傘松峰大佛寺を建立するのである――後の永平寺である。
1247年頃、道元は執権北条時頼・波多野義重らの招請を受け、鎌倉へ下向している。だが、どうも関東における教化はうまくいかなかったようだ。幕府内には、既に臨済宗が深く根を下ろしていたのである。半年後、大きな成果なく越前に帰った道元は、1253年に病で倒れて遷化するまで、永平寺にてひたすら禅の深化に努めたのであった。(続く)
ブログ主がこの本を読んだのは、20年ほど前であろうか。ナイーブな作者はある日ひょんなことから、仕事も彼女も捨てて永平寺に入るのである。だがそこには思いつめたような悲愴感はない。入山して後の修行の日々であるが、体育会系のしごきもあるにはあるが、語り口はあくまでもライトである。なるほど、21世紀の永平寺とそこで修行する人たちはこういう感じなのか、ということが理解できる良書である。