これまでのシリーズで、仏教が如何にして日本社会に受容されていったか、そして2人の天才・空海と最澄の登場による平安仏教の興隆、更に鎌倉仏教の登場についてなどを紹介してきた。このシリーズではその後、南北朝から室町期において仏教各宗派はどのように発展していったか?を紹介してみたいと思う。
結論から言ってしまうと、室町期の仏教は鎌倉仏教が巻き起こしたような、思想上のセンセーションは起こさなかった。教義的にはそこまで大きな進展はないのだ。その代わり、各教団において組織の質的変化と規模の拡大が行われた。各宗派はより組織化され、洗練された教団へと成長していくのである。
なお内容の一部は前シリーズのものと重複するかもしれないが、お付き合いいただけば幸甚である。
さて鎌倉期に急激にその勢力を伸ばした宗派NO.1は何かというと、それは間違いなく法然の興した「浄土宗」と、そこから派生したいわゆる「念仏宗(浄土真宗・時衆を含む)」である。
「他力本願」という全く新しいアプローチで、救いに至る道を示した浄土宗の教えは革命的なもので、それまでの仏教の教えそのものに変革をもたらすものであった。小難しい理屈を排し、各自の信仰心そのものにフォーカスを当てたそのスタイルは、西欧におけるカトリックに対するプロテスタント(新教)の登場と、よく対比されることがある。
何よりも浄土宗は、庶民のための仏教であった。これまで力のない庶民層は実質的には旧仏教の救いの対象には含まれておらず、ある意味彼らは信仰の空白地帯であったわけだ。
それまでの庶民らは何を信仰していたかというと、端的にいうと「おまじない」レベルのものでしかなかった。まともな宗教というものを知らなかった彼ら庶民層は、市場的にはブルーオーシャンであり、浄土宗は思う存分、先行者利益を享受することができたといえる。
では室町期で最も隆盛を誇った宗派は何かというと、それは臨済宗なのである。法然より遅れることわずか16年(法然の立宗が1175年、栄西が大陸より禅を持ち帰ったのが1191年)、栄西が広げ始めた「禅」の教えは、戦士階級にあった武士たちの価値観にピッタリはまったのである。
武士たちの間に、浄土宗が浸透しなかったわけではない。過去の記事でも紹介した法然の弟子である、あの困ったちゃんの熊谷直実をはじめ、多くの武士が浄土宗の信者になってはいる。しかし禅宗の方が、武士には遥かにウケがよかったのである。何故か。
熊谷直実についてはこちらの記事を参照。平家物語にも出てくる有名な人であり、ブログ主も高校の授業で学んだ記憶があることから、てっきり学のある思索的な人かと思っていたのだが、よくよく調べてみると、とんでもない人なのである。遠くから観察する分にはかなり笑える人ではあるが、同じ職場にいたら大変な目に遭うだろう。
浄土宗の教義である「他力本願」の考え方は、自己の主体性を放棄したところから始まる。そこが革新的だったわけだが、しかし武士たちはこれまでの貴族たちに取って代わって、新たに台頭しつつある支配階級なのである。新興地主として、主体性を持って領地経営にあたらなければいけない、そんな武士たちにとって「全てを仏に委ねる」という一種受動的な考え方は、必要としていた生き方にマッチングしづらかったといえる。
一方、禅宗は「生きることすべてが修業」という考え方をもつ教えである。懸命になって経をぶつぶつ唱えるよりは、「全ての行動が修業につながる」禅の教えの方が、肉体派の武士にとっては遥かにしっくりくるのである。
例えば座禅。見方によってはこれも「自己を鍛錬する」行為であるといえる。ぶっちゃけた話、当時の武士たちが進んで座禅を行っていたとは考えづらいのだか、それでも「座禅をよし」とする考え方は、武士たちが重要視する「日々鍛錬し、武芸の腕前をあげる」という行為などと親和性が高かったのであった。
そんなわけで、臨済宗は武士階級の間で急速に浸透し、幕府の後援をも得ることができたのである。鎌倉末期には、幕府は南宋の官寺制度を参考に「五山制度」という制度を定め、禅寺の運営にあたっている。そして室町期にはこの「五山制度」は更に発展し、幕府による地方支配に利用されることになるのである。
室町初期に、禅宗が飛躍する契機をつくった僧がいる。彼の名を夢窓疎石(むそうそせき)という。これまでの記事で取り上げてきた多くの先人たちと同じように、彼もまた一代の名僧なのである。次回、彼の人生を追ってみよう。
