このように臨済宗は、室町幕府の下で大きく発展することになる。室町幕府は鎌倉以来の禅寺の「五山制度」をそのまま受け継いだが、この室町期に五山は官寺としての組織化が徹底して進むことになる。
一例として、室町幕府には「禅律方」という役職があった。これは幕府が禅宗と新義律宗を統率するための役職なのである(この頃、新義律宗もまた大きな勢力を持っていたことが分かる)。
禅律方には頭人(とうにん)と奉行を置き、それに五山を統率させたのである。五山の下には、最終的には数千の末寺・塔頭が所属することになるのだが、この膨大な数の禅寺は室町幕府の管理の下、巨大なピラミッド型の官僚体制が構築されたのであった。
このように禅宗は(新義律宗も)、幕府と一体化して発展したことに特色がある。他の多くの仏教諸派との、大きな違いであるといえる。
例えば比叡山や高野山、また南都六宗などの旧仏教の在り方を見てみよう。初期の彼らは、朝廷と結びつくことによって勢力を拡大していった。そういう意味では、幕府と結びついた臨済宗と同じなのだが、すぐに膨大な数の荘園を直接経営していくようになる。更に時代が下るにつれ、数多くの利権を様々な形で展開している。
例えば、室町期の京における銭貸し(土倉)の70%は、叡山がスポンサーであったことは、過去の記事でも述べた通り。朝廷との深い関わりは続くのだが、十分に力をつけた彼らは朝廷の庇護下から離れ、「寺社勢力」としてひとつのパワーを確立することになる。
独自の経済力を持っていたということは、利権を守る軍事力も持っていたということである。僧兵という強力な軍隊をも有していた彼らは、中世日本の支配層の一翼を担っていた。幕府にとって旧仏教勢力は、共に体制を構成するプレイヤーの一員であると同時に、ゲームの枠内で権益を争うライバルでもあるわけだ。
中世リゾーム構造についてはこちらを参照。
では同時期に出現した、他の鎌倉仏教はどうであろうか?例えば浄土宗を筆頭とする念仏宗であるが、新興勢力であった彼らは、体制側であった旧仏教からは徹底して迫害されている。中世リゾーム構造を構築する勢力のひとつであった旧仏教からしてみれば、鎌倉仏教は自身に取って代わろうとする、脅威以外のなにものでもなかったから、激しく潰しにいったのである。
幕府にしてみれば、彼ら念仏宗とは直接の利害関係にあるわけではない。時には叡山との政治的駆け引きで優位に立つため、当て馬として優遇することさえあった。
しかし幕府にとって パワーゲームの対象である旧仏教勢力は、互いに緊張感のある関係性であると同時に、共に支配体制を構築するメンバーなのである。例えば先述した叡山出資の土倉であるが、土倉は毎年多額の営業税を幕府に払っている。これなしには幕府も困るのであって、結局は持ちつ持たれつの関係性なのである。だから最終的には彼らの要求を拒むことはできず、弾圧の許可を出さざるを得ないのであった。
そこで念仏宗は、旧仏教の力が及ばない地方での布教へと活路を見出すことになる(これについてはシリーズ後半で述べる)。
同じように禅宗もまた、旧仏教の攻撃対象になっている。特に開宗直後には強い弾圧に晒されており、1191年には開祖である栄西に対して「禅宗停止」が宣下されたのは過去に紹介した通り。この時は栄西の機転と努力で何とか乗り切ったのだが、旧仏教サイドからの敵視は続いた。例えば大和国においては、その地を支配する興福寺の意向によって、奈良への禅寺の進出や臨済僧の入国を認めなかったほどである。
12世紀中ほどには、延暦寺の激しい強訴に晒されている。1345年には天龍寺落慶法要への天皇行幸で、延暦寺から異議が唱えられている。67年には南禅寺が山門造営のために、関銭を徴収するための関所を設けたところ、園城寺の僧が銭を払わず通ろうとして殺害される事件が発生している。この時、激怒した園城寺のバックに延暦寺がつき、全面的に園城寺を支援している。幕府もかばいきれず、南禅寺の楼門を破壊する命を下さざるを得なかった。
とはいえ浄土宗や法華宗など、他の鎌倉仏教諸派は本堂を破却されたうえ、開祖まで流罪に処されているわけで、それらの迫害ぶりに比べると、大したことはないといえる。さすがの叡山も、幕府と一体化していた禅寺に本格的にケンカを売るわけにはいかず、この程度で我慢するしかなかったのだ。
では逆に、幕府がここまで臨済宗を後援するメリットはなんだったのだろう?「安国寺と利生塔の建設プロジェクト」に関しては前記事で紹介したが、禅寺が室町幕府に果たした役割はそれだけではなかった。
結論から言うと禅僧らは、経済・外交面でのテクノクラートとして、幕府のために働いたのである。この頃、急激に発達し始めた貨幣経済であるが、この分野においては多くの職能人を抱えていた旧仏教サイドに一日の長があった。叡山が京における金融を一手に握っていたことも先に述べた通りで、経済面でこれに対抗するために幕府は禅僧らを必要としたのである。
彼らはこの期待によく応え、時代が経つにつれ金融面に食い込んでくる。室町後期には、禅寺は幕府にとって現在でいう中央銀行のような役割を果たしていたようだ。また莫大な利益があがる、日明貿易(勘合貿易)を担当したのも禅僧らであった。
このように幕府の財政は、禅寺によって支えられていた部分が大であったわけであるが、分かりやすい例を実際に挙げてみよう。
室町期には、禅寺が幕府に納める「公文官銭」という制度があった。これは地方の寺が官寺へ昇格する際に、幕府に支払う銭なのである。更には幕府は、この官寺に勤める住持の人事権をも握っていた。住持の任命期間は満2年と決められており、これを更新する際には、これまた幕府に銭を払う必要があった。時間が経てば自動的に更新料が入ってくるわけで、今でいうサブスクのようなものである。
時代によって、また寺格によって更新料には差があるのだが、最高位の五山の場合は50ないし20~30貫文、次点の十刹・諸山は10ないし5貫文と定められていた。ひとつひとつの額は大したことはないと思われるかもしれない。
しかし五山の数も始めは5つであったのが、のちに10寺(最終的には11)、十刹も始めは10つであったが、のちには60以上、諸山に至っては最終的には300ほどと、時代が下るにつれ禅寺の数が増大していくうえ、任期も更に短くなっていく傾向にあった。塵も積もれば何とやらで、幕府に納入される銭は驚くほど莫大な額に達したのだ。
応仁の乱のころには年間で1千貫にもあがり、これが幕府財政を支える重要な柱になっていたという。また室町中期からは更に簡易な抜け道として、銭を納めるだけで住持名義が受けられるという、「坐公文」という制度が上記とは別にあったようだから、禅寺のこうした公文官銭による収入なしでは、幕府財政は成り立たないほどであった。(続く)
