根来戦記の世界

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旅行記~その⑰ 北陸旅行記・流刑地だった秘境・五箇山

 春日山城旅行記だけで8記事になってしまいした・・・城そのものの紹介というよりも、「苧麻」と「御館の乱」についての内容でしたが。

 しかし、まだ旅行記は続くのです。もう少しだけお付き合いいただければ。

 本当はこの後、糸魚川のヒスイ海岸に行ってヒスイ拾いをしたり、川船でしかたどり着けない秘湯・大牧温泉に入ったりしたのですが、史跡とは関係ないので割愛します。富山城・増山城にもいきましたが、こちらも割愛。

 その後、向かった先は富山県五箇山です。合掌造りのある村落で世界遺産にも認定されていますが、兄弟分である白川郷のほうが有名すぎて、案外知らない人も多いと思います。ここが実に面白かったので、五箇山とそこにまつわる話を幾つか紹介させていただきます。

 まず白川郷五箇山の位置関係はこの通り。

 

御覧の通り、非常に近いです。距離にして約20km。車で30分くらいで互いにアクセス可能です。江戸期の五箇山庄川流域にある、深い谷間に点在する70の集落から成っていました。

 

 同じく庄川沿いにあるこの2つの地ですが、使われる方言・味噌・民謡など、文化的には異なるところが多いとのことです(宿泊先の方に教えていただきました)。これは何故かというと、白川郷は幕府の直轄地である天領五箇山は加賀の前田家の領地だったからなのです。

 日本に限らず世界的にそうなのですが、文化というものはその国の各地方において、(源流があったとしても)大体17~18世紀以降に成立したものが多いのです。日本においては江戸期がまさしくその期間でした。

 この2つの地域、元々は同じような文化的土壌であったものの、政治的理由で国境が引かれてしまい、隔絶されてしまったまま250年経過したことで、文化的差異が生まれた、ということになります。興味深いですね。

 さてこの五箇山、非常に山深いところです。道を通すのも大変で、戦後になっても交通アクセスは極めて悪いままでした。たどり着くには、なにしろ険しい山道しかないのです。1980年(昭和56年)に北陸を襲った歴史的雪災(これを「五六豪雪」と呼びます)では、雪が溶けるまで他地域と半年間も断絶したとのことです。

 五箇山トンネルが開通したのが、ようやく1984年になってからなので、開発が遅れて合掌造りの家も比較的多く残った、というわけです。

 

今回の旅では相倉・菅沼・上梨の3つの集落を訪れました。泊まったのは上梨集落にある合掌造りを改築した、合掌民宿「弥次兵衛」さんです。右は1921年、大正時代に撮られた上梨集落の写真ですが、江戸時代とそう大きく変わっていないと思われます。指さしているところが、今回泊まった合掌造りの家屋です。残念ながら、現在の上梨集落には合掌造りの建物はあまり残っていませんが、「弥次兵衛」さんは残っているその数少ない建物になります。

 

弥次兵衛さんの内部。実に快適でした!もともとは格式も高く、重要文化財クラスの建物だったのを、文化財指定を断って(指定されてしまうと改築できなくなる)、なるべく手を入れずに、しかし快適に過ごせるように改築したとのことです。

 

とても美しい集落の景色と、合掌造りの家。白川郷と違って五箇山は平地が少ないので、集落の規模はかなり小さいです。右の写真は菅沼集落です。

 

五箇山の谷間ですが、どれくらい深いかというと、こんな感じです。川に沿って延々とこんな感じの断崖が続くのです。向こうにある鉄橋で、何となく高さがイメージできるでしょうか。驚くべきは江戸時代には、川に1本も橋が架かっていなかったのです。ではどうやって谷を渡ったかというと・・・

 

なんと対岸までぶどう藤で編んだ縄を張り、それに通した籠に乗り、縄を手繰って渡った、とのこと。これを「籠の渡し」と呼びます。左は明治時代に撮られた写真です。右はイメージ図。

 

1764年の記録によるとこの「籠の渡し」、五箇山山中に13ヶ所ありました。藩は金を出してくれないので、村が自腹で架けていたとのこと。中には夏には切り落として、秋になったら架ける冬専用の「籠の渡し」もありました。ちなみに、途中で落ちる事故もよくあったようです。

 

再現された「籠の渡し」。下は断崖絶壁、川風に吹かれるとひどく揺れて、大の男も肝が縮んだようです。ちなみに蓮如五箇山を訪れた際には、これに乗って川を渡ったようで、「蓮如証人絵図伝」にもその場面を描いたシーンが残っているとのことです。

 

 このように隔絶された地域だったため、加賀の前田藩は五箇山流刑地として定めていました。江戸期の五箇山は70の集落がありましたが、うち流刑地に定められていたのは7ヶ所。上梨集落はそのうちの一つでした。

 流人の殆どは政治犯や軽犯罪者で女性もいた、とあります。待遇はそこまで悪いものではなく、「平小屋」という建物で生活し、村への出入りも自由でした。藩から給金まで支給されており、村人からは「~殿」と呼ばれ、暮らし向きも悪くなかったようです。ただし、たまに来る重罪人は別です。彼らは「御縮小屋」と呼ばれる独房のような小屋に閉じ込められ、そこで生活していました。

 

上梨集落にある、復元された御縮小屋。重罪人は坂の途中にある、わずかな建坪に建てられたこの小屋の中から、出ることは許されませんでした。記録によると、1667年から1868年までの201年間で、五箇山に送られた流人の数は判明しているだけで159人。うち赦免されたのが55人、病死が56人、自害が4人、逃亡が11人、明治維新になって解放されたのが8人、とのことです。残りの25人は、五箇山で天寿を全うしたのでしょうか?それにしても逃亡が11人もいたのに驚きます。どうやって川を渡ったのでしょう。

 

食事を出し入れする穴から覗くと、中には人形が。造形もちょっと特徴的だったので、ビビりました。ちなみにこの小屋の中に更に檻を作って閉じ込める「禁錮」という刑もありました。長生きできる環境とは思えず、冬を越すことはできなかったのではないでしょうか。結果的に重罪人は全て、病死56人にカウントされる運命にあったものと思われます。

 

 なお自害した流人のひとりに「お小夜」という女性がいました。無許可で営業していた出会茶屋で働く遊女でしたが、茶屋が摘発された結果、働いていた遊女たちは全員、輪島に流されることになったのです。ところがお小夜だけは輪島出身だったので、それでは単なる里帰りになってしまうとのことで、彼女だけが五箇山に流される羽目になったのです。

 このお小夜は妓芸に秀でており、小唄や三味線などをこの五箇山の地に広めました。現在、五箇山無形文化財として残っている「麦屋節(むぎやぶし)」は、彼女が広めたものと伝えられています。まさか自分の広めた謡が伝統文化として国に認められるとは、思ってもいなかったでしょうね。

 しかし彼女は、村の若者との間に子を成してしまいます。流人と村人との間で通婚することは禁止されており、悲嘆した彼女は川に身を投げて死んでしまったのでした。(続く)