根来戦記の世界

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秀吉の紀州侵攻と根来滅亡〜その③ 紀泉連合の敗北と、防衛ラインの崩壊

 千石堀城攻めとほぼ同じタイミング、もしくはそれよりやや早く、近木川ライン中央に位置する積繕寺城(しゃくぜんじじょう)も秀吉軍の攻撃にさらされている。

 籠城兵力はよく分かっていないが、戦略上重要なこの城に兵力を集中させたのは間違いないところだ。紀泉連合は近木川ラインの諸城塞に1万ほどの兵力を分散配置していたようだが、その半分近くはこの城に籠城していたのではないだろうか。この積善寺城に籠っていたのは、根来衆であった。

 

岸和田市立郷土資料館蔵「根来出城図」に著者が加筆したもの。原図を90度、回転させてある。江戸後期に描かれた図なので、どこまで正確なのかは不明。積善寺城は近木川防衛ラインの中央に位置し、要石の役割を果たしていた。

 

 秀吉軍の先鋒、丹後与一郎の一手がまず積善寺城南方に迫り、城方との間で銃撃戦が展開された。城からの弾幕は強烈で、うち一弾が丹後勢の馬印に当たった、とある。

 だがこの攻撃は攻め手の勇み足だったようで、秀吉は一旦兵を退かせている。まずは千石堀城攻めに全力をあげることにしたのだ。数時間後に千石堀城は爆発炎上、派手に陥落する。

 意気上がる秀吉軍。改めて修繕寺城を攻めるは細川忠興大谷吉継、稲葉典道、筒井定次、佐々行政、伊藤弥吉などといった面々であるが、これに更に蒲生氏郷池田輝政らも加わった、とある。秀吉軍の総兵力の方も判然としないが、2~3万はいたのではないかと思われる。

 先鋒を務めた細川忠興軍に対して、紀泉連合軍は城内から討って出てきたという。或いはこれも、連携していた近くの砦から出撃してきた別動隊であったかもしれない。

 細川隊はこの隊の弓鉄砲による攻撃に激しく晒されてしまう。細川家の記録にはこの時、先駆けの武者・沢村才八が鉄砲玉を7発食らい、うち1発は身体を貫通して深手を負った、とある。また武藤喜左衛門や杉原伝八ら、名のある武者が何人も討ち死にしたようである。

 

岸和田市立郷土資料館蔵「根来出城図」より、千石堀城(左下)・積善寺城・(左上)、高井城(右下)を拡大。積善寺城は、持仏観音堂であった所を中心に、周辺の村落を堀や土塁で囲み要害化した城である。規模は東方が78間(約142m)、二重堀が設けられ、西方が93間(約170m)、三重の堀があり、北方は130間(約236m)で堀は三重、南方は120間(約218m)で堀は三重、外郭には更に池があった、と伝えられている。

 

 だが多勢に無勢、援軍を加えた寄せ手の攻撃に耐え切れず、根来衆らは城内に退去し籠城戦に入った。軍勢が近づくと、城内から盛んに矢や鉄砲玉を撃ちかけてきたようだが、隣に位置する千石堀城が陥落したのが心理的に堪えたのだろう。翌22日に、城はあっけなく降伏開城してしまったのであった。

 この積善寺城、そして千石堀城の前面には高井城があり、成真院率いる熊取大納言坊(小佐次盛重)ら根来衆が籠っていた、と伝えられている。この高井城は集落を取り込んで城郭化した、環濠集落のような城であったようだ。福島正則軍に攻められており、おそらく積善寺城よりも先に落とされてしまったものと思われるが、守将である熊取大納言坊は落ち延びている。(このとき彼は秀吉側に従軍していたという、全く逆の話も伝わっている。いずれにせよ、彼はこののち様々な戦役に参加した後、名を根来右京と改め子孫は幕臣となり、三千四百石の大身旗本として栄えることになる)

 最も海岸に近い沢城、そして畠中城はどうなったのだろうか?

 まずより前線に位置していた畠中城であるが、「百姓の持ちたる城なり」と記録にあることから、泉南地方の土豪である神前(こうさき)氏の本館であった可能性が高いとされている。この城は寄せ手の攻撃を少なくとも1回は撃退したようだが、大軍による包囲と千石堀城の落城で士気が失せたらしく、その日の夜のうちに自ら城に放火し、退却している。

 沢城に籠っていたのは、雑賀衆だ。城内に紀州街道を取り込んでおり、古くからあった薬師堂を中心に要害化した城だったらしい。守将は的場源四郎とも伝えられているが、定かではない。守兵の数は6000と書かれた記録もあるが、かなり誇張された数字だと思われる。いたとしても千石堀城と同数の1000~2000がいいところだろう。この城を攻めるのは、中川秀政と高山右近

 

右下が畠中城、左下が窪田城、そして一番上が沢城。それぞれが土居によって連結され、有機的な連携が取れる設計の城塞コンプレックスとなっている。ただこれは江戸後期になって造られた図面であるので、本当にこのような縄張りであったかどうかは怪しいところである。なお窪田城における攻城記録は伝えられていない。

 

 城にいた雑賀衆からの一斉射撃により、攻め手はいきなり多数の死傷者を出したようだ。当時の本願寺の記録に「21日より攻め手は(沢城の)壁際に打ち寄せたが、城内からの鉄砲により多くの手負いを出した」と書かれた旨のものがある。

 だが中川秀政はひるまず自ら前線にたち、じりじりと二の丸の堀際まで攻め寄せる。翌々日の23日までには二の丸も陥落、本丸直下まで迫ったようだ。そしていざ本丸に突入せんとする直前、城内から和平の合図である笠が出された、とある。城兵は命を許され、各地に落ち延びていったという。

 この沢城の陥落をもって、近木川防衛ラインは完全に一掃されたことになる。一番長く抵抗した沢城ですら、3日間しかもたなかったのであった。

 実のところ、上記で紹介したこれら根来の出城の多くは、防御力の低い平城であった。丘の上に建てられ複数の曲輪に空堀や石垣があった、戦国期らしい堅城といえるのは千石堀城のみである。「根来出城図」を見てみると、出城の中で「城」と記載されているのは千石堀城と沢城のみで、他は「村」と記されている。ラインを構成した城の多くは、交通上の要所にある村落を要塞化しただけの「村の城」であったのだ。

 秀吉は戦術上最も手ごわい千石堀城を落としてしまえば、他の諸城の攻略も楽になると考えていたようで、戦略上重要な積善寺城を一気に攻めず、まずは千石堀城攻めの方に全力をあげた。千石堀落城時の火薬庫爆発の轟音と火柱は全ての城から見聞きできたはずで、最も防御力の高かったはずの城がわずか数時間の戦闘で落城してしまったことが、秀吉の思惑通り防衛側の士気に致命的なダメージを与えたといえよう。

 そしてこの防衛線を突破された今、秀吉軍から根来そして雑賀の地を遮るものは、何もなかったのである。(続く)