根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑦ 太田城陥落と中世の終わり

 1585年4月5日前後に堤防が完成、早速紀ノ川の支流・宮井川(大門川上流をこう呼ぶ)の水を引き入れ始める。秀吉側にとって都合のいいことに、堤完成後にちょうど雨が降り始めたこともあって、あっという間に一面の満水となったらしい。その様は大海に浮かぶ小舟のようであった、とある。別の記録には、堤防の内側にあった民家には浮いて水面を漂うものもあった、とある。

 前記事でも触れたが、太田城の東側には南北に走る「横堤」という堤防があった。太田側の記録である「根来焼討太田責細記」には「この横堤は秀吉側の水攻めに備えて築いたもの」という旨の記述があるが、囲まれている最中に外に出て工事などできるわけもなく、やはり以前からあった治水目的のものだったのだろう。いずれにせよこの横堤のおかげで、城そのものは浸水からはしばし持ち堪えたようだ。

 しかし嵩を増す一方の水圧に耐え切れず、8日前後、遂にこの横堤が切れる。どっと押し寄せた水は、あっと言う間に人々の腰まで濡らした。この奔流から逃れるために蛇やネズミ、イタチまでなりふり構わず人の体に這い上ってくる有様。遂に城内まで水に漬かってしまったのである。

 しかしやはり突貫工事には無理があったのだ。横堤が切れた翌9日、宇喜多家の担当部署であった北側の堤が切れた。付近に陣取っていた宇喜多の軍勢も水に飲まれ、溺死者が多数出たといわれている。

 

堤が破れた辺りはこの辺りでも低い土地で、嵩も高くしなければならなかった上、元々あった川の流れを遮るように築堤された部分であったことから、水圧が最もかかる個所であったと推定されている。故事として長らく語り継がれてきたのだろう、この場所には「出水」という地名がついている。(該当箇所には更に「切れ戸口」という地名がついている、と書いてあるサイトを見たが、真偽のほどは未確認。知っている方がいたら教えてください)あまり信用できない太田城側の記録では、水練の達者である松本助持(すけもち)という武士が、150間に渡って堤防を決壊させた、とある――どうやったのかは不明であるが。

 一時的に水が引いたことで、城内の士気は上がった。だが秀吉は再びの突貫工事で堤を修繕、水嵩は再び増えてしまう。

 この堤が切れる前なのか後なのか、記録によって異なっているのだが、秀吉方が湖と化した堤防内に船を進水させ、太田側との間でなんと船戦さが行われた、とある。例の「根来焼討太田責細記」には、「横堤が破れる前に船を出して攻めてきた秀吉側に対して、城からは鉄砲などで反撃してこれを多数沈めた」旨が書かれてある。しかし、そもそも「横堤があったので、城は水に沈まなかった」と直前の文にあるから、城中から船と交戦できるはずもないのだ(或いは太田側は横堤の上に出て、そこから秀吉側の船と交戦したということかもしれないが・・)。同記録にはまたこの船戦さの際、朝比奈摩仙奈という尼法師が単身秀吉方の船に乗り込んで大暴れした、という漫画みたいな描写もあるが、これもフィクションであろう。

 船戦さが行われたのは、間違いないようで、同時代の複数の記録に残っている。おそらく宇喜多家の堤が破れた後、修繕して再び堤内に水が満たされた後に行われたものと思われる。幾つかの記録には「安宅船が使用された」という記述があるのだが、そんな大船を運用できるほど喫水が深かったかどうか?取り回しの勝手が良い小早舟を使用したものと思われる。いずれにしても、この船を出しての攻撃はあまりうまくいかなかったようで、その辺りの記述は共通している。

 

惣光寺蔵「総光寺由来太田城水責図」より、太田城部分を拡大したもの。船を使った城攻めが描かれているが、小早舟が使われていることになっている。横堤の存在も確認できる。

 ここまで秀吉方の攻撃を何とか凌いでいた太田城ではあるが、せっかく切れた堤もすぐに直されてしまったし、外から助けが来るあてもなし、籠城方は完全に手詰まりであった。これ以上、意地を張っても意味はない。開城交渉の結果、「主戦派のリーダー格、53名の命」と引き換えに他の者の命は助ける、という条件で開城することになった。この53名というのは先の記事で紹介した、和平交渉が破れた際に戦闘となった際に出た、秀吉方の武者の死者の数と同じにしたようだ。

 4月27日、約1か月に渡る籠城の後、太田左近以下主だった者たちの中から選ばれた53名が切腹して果てた。またその妻子18~28名(記録によって異なる)が磔にされた、とある。だが残りの城内の人々の命は助かったのである。ただし条件があった。それは「全ての武器の携帯を許さず、20日分の食料と鍬鍬・鍋釜・牛馬など家財道具のみ持ち出しを許す」というもので、つまりは帰農を条件とした降伏である。これは今後、秀吉政権によって全国に渡って行われる刀狩り――つまり兵農分離の先駆けとでもいえるものだ。

 こうして太田城は開城し、雑賀における最後の組織的成功は終わった。惣国の崩壊と共に「中世」という時代も終わりを告げたのである。(続く)