根来戦記の世界

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秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その④ 根来炎上

 近木川防衛ラインを、あっけなく突破されてしまった紀泉連合。そのまま南に軍を進めた秀吉軍は、23日には山を超えて根来寺に入った。風吹峠と桃坂峠、2つの峠を同時に越えて北から境内に侵入したと思われる。

 この秀吉による根来寺侵攻の詳細を、隣の雑賀太田党の目線から記した、「根来焼討太田責細記」という記録がある。江戸前期に書かれたもので、これには秀吉軍と根来行人らによる、根来寺を舞台とした激しい戦いの記録が記されている。少し長くなるが、要旨を見てみよう――

 秀吉軍に対するは、泉識坊をはじめ、雲海坊・範如坊・蓮達坊、そして杉乃坊といった面々。これら荒法師ら総勢500騎を率いるは、津田監物こと杉乃坊算長であった。(中略)攻めてきた秀吉軍に向かい、津田監物は100騎を率いて突撃する。敵陣が崩れたので、これを二十町あまりも追い立てるが、その隙に別動隊が門前に押し寄せ、鬨の声をあげる。

 城門には児童や老僧しか残っていなかったので、これを畏れて狼狽しているところを、攻撃隊は門を突破してしまう。取って返した行人方のうち、雲海坊は川口治郎という武者を、多聞坊は平賀図書といった武者を討ち取るも、乱戦の中2人とも命を落としてしまう。

 山内に突入した秀吉軍の増田・片桐・筒井・堀らの軍勢は、建物に火を放ったので、境内は燃え始めた。(中略)多くの僧が逃げ惑うところ、軍兵は容赦なく切り捨てたので、折り伏した骸が丘のように積まれた。

 大将・津田監物は、打ち物とっては並ぶ者なしの勇者であったから、和部金吾隼人や渡邊何某といった武者と同時に立ち合い、2人とも斬り捨ててしまう。しかし、さしもの勇者・監物も、直後に大谷慶松(吉継)と増田長盛に斬り伏され、首を取られてしまうのであった。

 最終的に秀吉軍が取った首は、衆徒のもの400以上、一揆の者の首が234。生け捕った者が根来の僧が200以上、一揆の者ども214人。味方で死んだのは190人、手傷を負ったのは300人ほどであった――

 以上、まるで見てきたような書きぶりだが、どこまで本当なのかは怪しいものである。記されている戦いの様相も、如何にも後世に創られた軍記物といった内容であり、そもそも鉄砲を得手としている根来衆なのに、それらを使用した描写は一切なく、打ち物取って戦う様しか描かれていない。しかもここに出てくる守兵の大将・津田監物(杉乃坊算長)であるが、1567年には既に死んでいるのが確認されているのだ。

 

算長こと津田監物は、種子島から根来に鉄砲をもたらした、歴史上の重要人物である。彼については、過去のこちらの記事を参照。

 

 実際のところ、戦える行人らは全て近木川防衛ラインに動員されていたようで、組織的抵抗は殆どなかったようだ。だがこの秀吉の大軍に対して、津田監物の息子であり、自由斎流砲術の開祖でもある、津田自由斎は最後まで戦って殺された、とも伝えられている。なのでこの自由斎を、父である津田監物と混同して描写した可能性はゼロではない。

 いずれにせよ自由斎は刀剣を振るって戦ったのではなく、最後まで愛用の鉄砲を抱えて戦った、と信じたい。松永久秀に殺された剣豪・足利義輝のごとく、持てる秘術を思う存分に駆使しての討ち死だったのだろうか。

 そうした個人レベルの武勇はともかくとして、近木川防衛ラインが予想よりも早く突破されたことから、根来の僧たちは取るものもとりあえず逃げ出していたようだ。竹中重門(あの竹中半兵衛の子)が記した「豊鑑」という書物には、「寺々はみな明けうせ、僧俄かに落ち行たりと見えて、器以下取り散らかして置けり~」とある。つまり寺内には、奪うものが豊富にあったはずなのである。このお宝満載のほぼ無人根来寺に、秀吉軍は駐留する。そしてその日の夕刻から夜にかけて、境内に火災が発生したのである。

 これが放火だったのか、それとも失火だったのかは分からない。

 ルイス・フロイスの「日本史」には「夜が明けたら、秀吉による略奪禁止令が出されそうな気配を察した足軽どもが寺に火をつけて、どさくさに紛れて略奪しようとした」旨が書かれている。如何にもありそうな話で、これが真相に一番近いのではないだろうか。

 火の回りは意外に早く、秀吉が泊まっていた宿所(泉識坊)まで焼けそうになったので、慌てて山上に避難した、とある。折からの強風に煽られて、火は境内の建物のことごとくを嘗め尽くしてしまったのだ。

 天を焦がす業火は夜空を赤く染め、その照り返しは遠く離れた大津の貝塚道場からも見えたようだ。本願寺顕如の祐筆・宇野主水は「貝塚御座所日記」に、「煙立ちてより、その夜大焼。天輝く也。根来寺放火」と書き残している。顕如以下、本願寺の重鎮たちは、山向こうの夜空を照らしつつ燃え続ける根来寺に向かって合掌し、経を手向けたのではないだろうか。

 一夜明け、境内は灰塵と化していた――今の根来に、中世以来の建物が殆ど残っていないのは、この時の火災で燃えてしまったからである。だが幾つか火を免れたものがある。まずは寺の宝と言える大塔、そしてその隣にあった大伝法堂と大師堂である。境内の他の場所から、川の流れで分けられるような位置にあったのが幸いしたのかもしれない。

 

Wikiより画像転載。今も根来寺境内に聳え立つ、国宝「根来寺多宝塔」と重要文化財「大伝法堂」。この大塔の落飾は1547年で、建築に半世紀ほどかかっている。高野山で発展した、日本独自の「多宝塔形式」による建築物であるが、五間四方というここまで大きなもので現存しているのは、この大塔のみである。なおこの塔には根来焼討時の弾痕が残っており、鉄砲を使った戦闘が一部あったものと推測される。大塔の隣にあり、同じく焼け残った「大伝法堂」であるが、残念ながら京の天正寺(近江の総見寺とも)の建築に使われる健材として解体され、運ばれてしまっている。中にあった三尊もこの時に持ち去られてしまったが、こちらは後に返還されている。現存している「大伝法堂」は、江戸後期に再建されたものである。

 

Wikiより画像転載。同じく焼け残った、重要文化財「大師堂」。1391年頃に建立されたものと推定されている。大塔の斜め前に位置しており、同じく焼き討ちを免れている。これらの建物とは別に、南からの根来寺の出入り口であった、前山に位置していた南大門も焼け残ったが、こちらは羽柴秀長大和郡山城の城門に転用するために運び去ってしまったので、現存していない。

 

 秀吉軍の侵攻があったにも関わらず、境内に残っていた僧らもいた。根来で生まれ育った、どこにも行く当てのない老いた者や、貧しい者たちだったのであろう。その多くは斬られるか、焼かれるかして殺されてしまったに違いないが、虐殺を生き残った者たちもいたのだ。

 だが一夜明け、彼らの目に映ったのは灰燼と化した一山であった。死を覚悟した彼ら(50~60人)は経帷子(死装束)を身に纏い、秀吉の前に姿を現す。流石にこれを哀れに思ったのだろう、秀吉は彼らに食物を与えるように指示している。

 彼らはしばらくの間、大塔と大伝法堂、大師堂の近くに住み着いていたらしい。奇跡的に焼け残ったこれらの堂宇は、彼らの心のよすがであったことだろう。しかし20日ほどたって、秀長から遣わされた大工たちの一団がやってくる。何をしにやってきたのか訝しむ彼らに向かって、大工たちは大伝法堂を解体しにやってきた、と告げたのである。

 もはや生きる望みをなくした彼らは、西大門の先にあった大門池に次々と身を投じたのである。こうして池に身を投げた老僧たちは、42人にも及んだと伝えられている。彼らが浮かんでこないように、若い僧がひとり畔に残って、長い竿を使い上から押さえていた、という悲しい記録(ルイス・フロイス「日本史」)が残っている。

 こうして中世根来寺は、終焉を迎えたのであった。(続く)