根来と雑賀
85年3月、信雄の秀吉派三家老粛清を機に、羽柴と織田&徳川の両陣営は臨戦態勢に入った。領地の大きさでは秀吉に比するべくもない織田&徳川は、紀泉連合との連携を試みる。 話は飛ぶが根来滅亡後、生き残った根来衆の一部は「根来組」として家康に召し抱…
本能寺にて信長、横死す――この報せは、あっと言う間に雑賀に伝わった。 先の政変で壊滅的な打撃を受けていた土橋派は、しかし未だ強い勢力を保持していたようで、この報せを受け即座に決起する。まず4か月前のクーデターで、土橋若太夫を裏切った土橋兵太夫…
先の信長の雑賀攻めにて、侵入者を惣国内に引き入れた宮郷・中郷・南郷の三組。ところが思惑と異なり、信長は大した戦果のないまま兵を引き上げてしまう。梯子を外されてしまった格好のこの三組に対して、十ケ郷・雑賀庄の二組が巻き返しを狙う。 1557年…
山手から攻め寄せる織田軍3万は、佐久間・羽柴・堀・荒木・別所らの諸軍で構成されていた。その先頭に立つのは杉乃坊、そして雑賀三郷の者どもだ。 この山手勢は雄ノ山峠を越え、田井ノ瀬で紀ノ川を渡河し、焼き討ちと略奪を重ねながら、2月24日頃には小…
前記事で紹介したように、岸和田合戦で信長は散々痛い目にあわされる。戦線が崩壊するどころか、危うく自分まで討たれるところであったのだ。 本願寺の武力の担い手は雑賀である。ならばその本拠地を叩くべし――そう考えた信長は、1577年2月に10万とも…
信長は石山本願寺を包囲する形で各所に砦を築いて、じわじわと本陣に迫っていく。だが本願寺は海岸線に大小いくつもの砦を構築しており、浜手から本陣へと続く地域を確保していた。この海からの補給路を潰さない限りは、本願寺は弱体化しない。海岸線にある…
先の記事での紹介した通り、雑賀衆も根来衆も傭兵稼業に従事していたから、戦場において敵味方に分かれて殺し合いをすることは、珍しいことではなかった。ただ源左衛門の記録を見る限りではその殆どは、小規模な集団同士での局地戦であったようだ。 では根来…
根来寺と雑賀惣国は、すぐ隣同士にある間柄だ。昔に書かれた戦国時代の本を読むと、根来衆と雑賀衆は1セットとして括られることもよくあった。どちらが有名かというと、残念ながら?雑賀衆の方が有名で、根来衆はそれに付随して語られる存在になりがちであ…