根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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根来と雑賀~その① 時に敵、時に味方 その奇妙な関係性

 根来寺と雑賀惣国は、すぐ隣同士にある間柄だ。昔に書かれた戦国時代の本を読むと、根来衆雑賀衆は1セットとして括られることもよくあった。どちらが有名かというと、残念ながら?雑賀衆の方が有名で、根来衆はそれに付随して語られる存在になりがちであった。このシリーズでは、雑賀衆が有名になった理由と、両者の複雑な関係性について見ていこうと思う。

 なお、以前にUPした記事(天王寺合戦の上下)をジャンル分けし直すつもりである。その際には編集の都合上、既にある該当記事を削除して、新たに再録する予定なので、ご了承いただきたい。

 さて紀州の特性として、突出した存在の成長を阻害する要因があったので、戦国大名が生まれなかった。これは過去の記事でも述べたとおり。

 

紀州で強力な大名が生まれなかった理由は、こちらの記事を参照。

 

 雑賀もそうで、その実体は国衆の連合体であった。雑賀庄・十ケ郷・宮郷・中郷・南郷の5つの地域があり、これを「雑賀五組」、或いは「雑賀五緘(かん)」と呼んだ。この5つの共同体は外敵に対しては、基本的には結束して事に当たった。雑賀惣国と呼ばれる所以である。

 

上記の地図の通り、1つの庄と4つの郷で構成された雑賀惣国は、鉄の団結を誇っていた・・・と言いたいところだが、残念ながらそうでもなかった。また惣国を構成していた惣村であるが、郷の中に複数存在し、それら同士でも争いがあったことが分かっている。

 共同体ごとに特色があって、宮郷・中郷・南郷の三郷は土壌も肥沃で田畑を多く有しており、住民はどちらかというと土地に根ざした生き方をしていた。だが海沿いの十ケ郷と雑賀庄は、当時は湾が陸地奥深くまで入り組んだ地形だったので、耕作可能な土地が少なかった。江戸期の史料ですら「田畑は砂交じり・潮入りの地を耕す・沼田多し」とある。なので彼らは生きていく術を、海上通商などに求めていかざるを得なかった。そういう意味では、雑賀五組はいささか性格が異なる2種類の共同体によって構成されていた、ということになる。

 惣国内でも田畑や水利権などの争いなどはあり、組同士の争いは頻繁に行われていたようだ。その辺りはおなじみ「佐武伊賀働書」に実例が幾つか載っている。上述した通り雑賀庄と十ケ郷は田畑が少なかったから、どちらかというとこの2組が残りの3組の田畑を狙って侵略する、といった構図だったようである(特に宮郷が狙われたようだ)。海上通商――要するに倭寇――で得た戦闘経験・鉄砲の保有数など、2組の持つ戦闘能力は、残りの3組に比して一日の長があったようだ。

 いわゆる「雑賀衆」という名称を使う場合、この雑賀庄と十ケ郷を指すことが多い。そういう意味では、雑賀庄と十ケ郷の2つの共同体こそが、雑賀衆の主体をなすと考えて良いのかもしれない。

 この雑賀衆本願寺との関係を抜きにして語れない。雑賀衆ははじめ、紀伊守護である畠山氏に従う形をとっていた。しかし畠山氏の凋落に伴い、信長が台頭してくる。この信長が本願寺と対立する姿勢が明確になってくると、雑賀にいた本願寺門徒たち「雑賀一向宗」は、本願寺の要請に従って兵を出すことになる。

 本願寺と信長間で繰り広げられた死闘・石山合戦において彼らは大活躍したし、実際に彼らが本願寺の主力であったのは間違いない。しかし雑賀五組の住民すべてが本願寺門徒であったわけではない。例えば浄土宗は、五組の中に結構な数の寺と信者数を抱えていたし、また隣に根来があった関係で真言宗の寺院も多かった。そういう意味では、越前や伊勢長島の一向宗とは異なり、本願寺が絡む戦いでも雑賀全体が主体となる場合は、「一向一揆」という言葉は使わない傾向にあるようだ。

 さてここまで長々と雑賀について説明してきたが、隣にある根来との関係性はどうだったのか。まず根来は、言わずと知れた新義真言宗の総本山であったが、真言宗は信仰よりも学究的な側面の強い宗派である。また前述したように雑賀も、狂信的な一向宗徒のみが治める国ではなかった。戦国期の日本では、北陸における有名な「越中一向一揆」の他、畿内でも「法華一揆」など、国を揺るがすレベルの宗教戦争は案外あったのだが、紀州において奉じる宗派の違いからくる類の争いは、そこまで大規模なものは記録されていない。

 両者の人的交流も盛んだった。倭寇のシリーズでも述べたように、雑賀庄の紀之湊を起点とした南海航路に関する記録には、根来行人の名が頻繁に出てくる。当然、経済的にも強い繋がりがあった。

 根来衆雑賀衆の関係性を象徴するユニークな例として、泉識坊があげられる。根来を代表する行人方子院・根来四院のひとつであり、規模と実力的にはNo.2の座にあった泉識坊だが、この子院は雑賀庄にある土橋氏が設立した子院なのである。雑賀庄に本拠を置く土橋氏は、泉識坊を通じて根来にも強い力を保持しており、雑賀と根来、両地域に跨ってその影響力を及ぼしていたのである。

 こうした例は他にもあって、中郷にあった湯橋家などもそうである。1486年にはあの蓮如がしばし逗留した、というエピソードを持つこの湯橋家は、敷地内に真宗の寺庵を設けているのだが、根来に威徳院という子院を持っていた。そして湯橋家の当主は、代々神主でもあったという。現代の日本人も顔負けのいい加減さ、よく言えば宗派に囚われない鷹揚さである。

 なお、根来における筆頭子院、泉識坊のライバルであった杉乃坊の本拠地は那賀郡小倉荘であるが、これは雑賀の中郷・和佐荘の隣にあった。そうした関係で、中郷に対してかなりの影響力を持っていたのは間違いないようだ。(※誤りがあったので、11月22日に内容を修正しました)

 双方とも各地で傭兵働きをしていた点でも、共通点がある。元根来法師で二十歳頃に還俗し、故郷の雑賀に戻った佐武源左衛門は、1560年頃から1580年にかけて、四国から畿内に渡って幅広く傭兵活動をしている。その彼の記録には、多くの根来衆が登場しているのだ。

 例えば1560年に土佐において本山方に雇われた時は、長宗我部方にいた根来坊主、「阿弥陀院の大弐」を討ち取り、その首を取っている。かと思うと、1570年7月25日に河内の阿保(あお)城で発生した攻防戦では、鉄砲に撃たれて死んだ仲間・中之島六郎太郎の遺体を、同僚である根来坊主「しこく坊の大夫」と共に、2人で回収したりしている。

 その時々で味方だったり敵だったりしているのは、傭兵の宿命なのだろうが、互いに顔見知り同士で、戦うこともあっただろう。戦場で相対した当人たちは、別に悲壮な感じでもなく、もっとドライというか、南国らしいあっけらかんとした感じだったと思われる。そもそも雑賀にしても根来にしても、ご近所さん同士で日常的に出入りが行われているわけだから、昨日の味方が今日は敵になったとしても、特に感じることはなかったに違いない。(続く)