根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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本願寺の興亡・「百姓の持ちたる国」編

日本史上初の「百姓の持ちたる国」誕生。一向一揆は如何にして、この偉業を成し遂げたのか。

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑲ 金沢御堂の設置と、妥協しつつも加賀の統制強化を進める証如

なかなか門主の言うことを聞かない、加賀門徒たち。石山本願寺が別心衆(つまり本願寺の敵)と認定した大物門徒・洲崎らの討伐を命じても「笛吹けど踊らず」で、加賀門徒らはなかなか動かないのであった。 これは何故かというと、別心衆認定といってもそこに…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑱ 力をつける加賀一揆の大物ら、その処遇に苦労する石山本願寺

1535年11月、畿内全域を巻き込んだ3年にわたる戦役――「天文の錯乱」がようやく終わった。本願寺としては負けに等しい内容の和睦条件であったが、証如自身も戦さに心底ウンザリしていたのだろう、彼の治世後半において本願寺が戦さに主体的に関わるこ…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑰ 主戦派の暴走、そして粛清された下間兄弟

1534年3月、下間頼盛によって拉致されてしまった門主・証如。拉致された先、河内国・榎並において証如は頼盛に「細川晴元と結んだ和睦を破棄し、再び戦うよう」と説得されるのである。 そして証如は(状況的に仕方ないことであるが)、説き伏せられてし…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑯ 法華一揆 vs 一向一揆 炎上する山科本願寺

1532年7月29日、京に突如出現した法華一揆。これに危機感を覚えていたのが、京から山ひとつだけ隔てただけの位置にある山科本願寺である。一向一揆の主力は堺攻めのため出撃していたので、本部である山科とは分断されてしまった形となる。 本願寺も座…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑮ 暴走する一向一揆 コントロールに苦慮する本願寺

奈良、つまり大和国は興福寺の力が非常に強い国である。その影響力の強さ故、幕府が守護を置くことができなかったほどで、大和の武士たちも衆徒として興福寺に組み込まれていた。 戦国期に入ると流石に往年の力は落ちてきて、衆徒らの中から「大和四家」と言…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑭ 「天文の錯乱」にて一揆勢の陣頭にたち、自ら指揮をとる門主・証如

激戦の末、加賀の三箇寺を下した超勝寺&本覚寺。彼らのバックにいるのは山科本願寺であるが、この時の門主・証如はまだ若年の16歳である。加賀三箇寺を滅ぼすまでの絵図は、彼の祖父・筆頭後見人である蓮淳が全て描いたものであった――その動機は多分に私…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑬ 加賀三箇寺の滅亡 ルサンチマンを晴らした蓮淳

1531年8月22日、孝景率いる朝倉勢8300は越前から加賀・江沼郡に侵攻、現地で光教寺勢と合流し、北上を続ける。超勝寺・本覚寺勢はこれに抗し得ず、手取川のラインまで撤退せざるを得ない。大河を天然の掘に見立て、北岸で食い止めようとしたのだ…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑫ 加賀三箇寺 vs 超勝寺・本覚寺の死闘「享禄の錯乱」

そもそも越前にあった超勝寺・本覚寺だが、その歴史は古く、隣国・加賀においても多くの門末を抱えており、特に白山山麓にある山之内庄に門徒が多かった。この山之内門徒衆は、加賀一向一揆の中でも精強を以て知られた集団で、その頭目は二曲(ふとげ)城を…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑪ 「今まで冷遇されていた僕が門主の筆頭後見役になったので、これまで馬鹿にしていたやつらをざまぁ!します」の巻

まだ幼い証如の補佐として成立した、「題名の五子」制度。この5人の中で、実績・影響力共に突出していたのは、北陸における最高司令官・蓮悟であった――実如が亡くなるまでは。 1519年に実如によって定められた、「一門一家制度」のルールをもう一度確認…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑩ 「このうらみ、はらさでおくべきか」ルサンチマンの塊・蓮淳という男

実如が指名した「題名の五子」の、5人中3人は「百姓の持ちたる国」加賀から選ばれた、いわゆる「加賀三箇寺(さんかじ)」の住持であり、実如の弟たちでもある。この加賀三箇寺であるが、そもそも如何にして成立してどのように発展していったのか、その経…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑨ 攻勢から守勢にまわる本願寺、そして実如の死

1506年・永正三年の一向一揆は、概ね失敗に終わった。特に越前における敗退は痛手で、朝倉氏によって一向宗は爾後禁制とされたし、聖地・吉崎御坊も焼き払われてしまった。 朝倉氏は門徒たちの財産を全没収のうえ国外追放、加賀との国境は陸のみならず海…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑧ 越前朝倉氏との死闘「九頭竜川の戦い」

北陸の本願寺の要・吉崎御坊は越前の国、加賀との国境にある。蓮如がこの地に降り立って以来(そして去った後も)、吉崎御坊は北陸の本願寺門徒たちの聖地であり続けた。門徒たちにしてみれば、この聖地がある越前を加賀のような「百姓の持ちたる国」にしよ…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑦ 「永正三年の大乱」能登・越中を席巻する一向一揆

1506年、実如の呼びかけにより一斉に蜂起した一向一揆。近畿近国一円がこの争いに巻き込まれることになるが、主戦場は何といっても北陸である。 北陸における一揆を指導したのは、本泉寺の蓮悟(蓮如第7男・実如の実弟)だ。大本営にあたる山科本願寺に…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑥ 実如に対するクーデター未遂事件「大阪一乱」

1505年1月に実如より2度に渡って発せられた、一向一揆蜂起指令。しかし摂津・河内の門徒たちは、これをはっきりと断ったのであった。これについてもう少し深堀りしてみよう。 実のところ、摂津・河内の門徒たちは大阪にある大阪御坊(石山本願寺)の強…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑤ 教えのために戦うのか、教団のために戦うのか?

1493年4月、将軍・義稙(よしたね)と畠山政長が不在の隙に仕掛けた「明応の政変」により、新たに第11代将軍・義澄(よしずみ)を擁立した細川政元。政元の政治力はかなりのもので、彼の呼びかけに応じ、総州畠山家攻めのため河内に軍を勧めていた諸…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その④ 中央政権と結びつく本願寺

富樫政親を滅ぼした一向一揆勢。これに激怒したのが時の将軍・足利義尚(よしひさ)である。そりゃそうである。荘園横領しまくっていた六角氏を成敗するために行われた「鈎(まがり)の陣」は、「応仁の乱」のち弱まってしまった将軍権力の威信回復を目的と…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その③ 加賀一向一揆の成功と、それを陰ながら援護していた蓮如

さて高尾城に籠る富樫政親に対する攻撃は、6月5日に始まったようだ。初日は小競り合いで終わっている。まずは様子見というところであろうか。 なおこの前後に、越中から畠山政長軍が、能登からは畠山義統(よしずみ)軍、越前からは朝倉貞景軍が富樫氏の救…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その② 遂に蜂起した一向一揆「長享の一揆」

越中にて、石黒氏と医王山惣海寺を滅ぼしてしまった本願寺勢。隣国加賀の富樫政親にしてみれば、藪をつついて蛇を出してしまったようなものである。領内においても本願寺勢力は未だ健在、予断を許さない状況にあった。 さて時計の針をぐっと戻して、加賀にお…

本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その① プロローグ・石黒氏と惣海寺を滅ぼした、越中砺波一向一揆

1474年、蓮如は吉崎御坊を去り、二度と北陸には足を向けなかった。前シリーズでは蓮如の動向をメインに紹介していたため、その後の北陸がどうなったかを紹介していなかった。 そこでこのシリーズでは、北陸の門徒たちがその後どうなったか、そして最終的…