本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如
1481年に仏光寺派の帰依を受けた本願寺だが、宗派ごと丸々本願寺に合流してきたケースはこれだけではない。 翌82年には、真宗三門徒派を構成する本寺のひとつ、越前国・横越証誠寺が本願寺に下っている。また93年には真宗木部派の本寺、近江国・木部…
1480年に完成した山科本願寺の御影堂は、巨大かつ意匠を凝らしたものであった。使用された柱50本は大和から、天井は大津で拵えたものを運び込み、四方の縁などには深草産の杉が使用された、とある。大工・番匠たちもまた、諸国の門徒たちが大量に動員…
吉崎を去った蓮如は、二度と北陸に戻ることはなかった。とはいえ、北陸の門徒らのことを見捨てたわけではないし、門徒たちも分離独立するような動きは見せなかった。 吉崎を去ったにも関わらず、蓮如は巧妙なやり方で加賀における影響力を増大させることに成…
過去の記事で紹介したように、1466年に史上初の一向一揆、本願寺門徒vs叡山僧兵の戦いが金森にて行われている。この「金森一揆」の際には、一揆勢は戦いに勝利したにも関わらず、非戦派の蓮如の言いつけに従う形で、おとなしく金森を叡山に明け渡してい…
加賀国内において、その勢力を伸長させてきた本願寺勢力。前記事で紹介したように、本願寺門徒らで構成された「郡」という組織が、地域の統治を勝手に行うようになっていた。名目としては守護こそが国を統べる存在なのであるが、国内にもうひとつ別の統治機…
1473年に弟の幸千代に敗れ、加賀から越前に落ちのびてきた富樫政親。蓮如は彼に対して金銭的に補助し、積極的にバックアップしていたようだ。これはなぜかというと、その背景には北陸における信徒の奪い合いがあったからなのである。 吉崎に本願寺がやっ…
吉崎御坊における本願寺の急激な膨張の理由は、なんであったのだろうか?蓮如が編み出した数々の革新的布教方法は過去の記事で紹介した通りだが、実のところ、それらのテクニックの殆どは、この吉崎の地にて完成しているのだ。 名号本尊を書きに書きまくった…
1467年、叡山による2年に渡る「法敵認定」がようやく解けた蓮如。しかし苦難は続くのだ。「寛正の法難」の際、蓮如は寺宝である親鸞影像と共に湖南をあちらこちらと彷徨っていたが、堅田に長くいたことがあった。堅田の町には、本願寺老衆である法住が…
大谷本願寺に攻め入ってきた、叡山率いる暴徒たちから、命からがら逃れることができた蓮如。 取り急ぎ目と鼻の先にあった、青蓮院傘下の定法寺に避難することにする。荒法師で名を鳴らす叡山の衆徒たちも、流石に身内であり門跡寺院である青蓮院にいる限り、…
1465年1月10日、叡山の指揮する暴徒たちに襲撃された本願寺。蓮如たちは迂闊にも全く油断しており、暴徒たちの門内への侵入をあっけなく許してしまったのであった。 ――なぜこんなに状況が細かく分かっているのかというと、この「寛正の法難」について…
蓮如がまだ部屋住みであったころ、真慧(しんね)という僧と出会っている。真慧は蓮如の19歳年下だから親子ほど年が離れているが、互いに信仰について語り合い、意気投合し、親友になったと伝えられている。 この真慧、実は高田専修寺9世・定顕の跡取りで…
室町期における仏教各派の、布教方法はどのようなものであったのだろうか。室町期ともなると、宗教的な空白地というものは存在しなかったから、信徒を増やすには既存の宗派の信徒に働きかけ、転宗させることで塗り替えていく方法がとられることになる。例外…
蓮如は一般向けに工夫をこらし、実に効率的な布教方法を編み出している。この記事では、彼の編み出した独特の布教方法について紹介してみよう。特徴としては、主に3点が挙げられる。 まずひとつ目は、前記事で紹介した「名号本尊」である。蓮如はこれを大量…
ようやく本願寺第8世の座に就任した蓮如。長く苦しい日々に蓄えていた知見、そして抱いていた理想が本格的に発揮される時が、ついに来たのである。彼の中では弓の弦はすでに限界まで引き絞られていたわけで、あとは矢を放つだけであった。 蓮如がまず行った…
大谷廟堂の寺院化に成功した覚如。その法脈は、覚如→善如→綽如(しゃくにょ)→巧如(ぎょうにょ)→存如(ぞんにょ)と続いていく。 その中でも綽如はかなりの傑物で、学問に秀でた人であった。明から届いた難解な国書を見事に解読、返書の草稿を書いた功で、…
はじめはその美貌が呼びよせた災難故に、長じてからは叔父による廟堂簒奪に、そして東国の門弟からの留守職認定に苦しんだ覚如は、他者から干渉を受けることに、心底うんざりしていたのではないだろうか。そんな彼が大谷廟堂の独立――つまり寺院化を目指した…
あの織田信長を、最も苦しめた敵対勢力は誰か――これは昔から盛り上がる論争で、候補として様々な名が挙げられる。戦国大名だと、まずは浅井長政・武田信玄あたり、変わったところだと足利義昭といったところであろうか。 が、その中でも最右翼に挙げられるの…