根来戦記の世界

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本願寺を強大化させたカリスマ・蓮如~その⑭ 北陸の本願寺門徒らが暴走した理由とは

 過去の記事で紹介したように、1466年に史上初の一向一揆本願寺門徒vs叡山僧兵の戦いが金森にて行われている。この「金森一揆」の際には、一揆勢は戦いに勝利したにも関わらず、非戦派の蓮如の言いつけに従う形で、おとなしく金森を叡山に明け渡している。

 しかし北陸においては再三の注意にも関わらず、門徒たちは蓮如の指示に従わなかった。この違いはどこにあるのだろうか?

 吉崎御坊時代に蓮如が各地に下した御文章を読むと、北陸の門徒たちに苦言を呈している内容が目につく。その内容は多岐に渡るのだが、どうも彼ら新規参入組の持っていた信仰は、蓮如の教えとはかなりのズレがあったようだ。蓮如が教義の面でも大きなフラストレーションを抱えていたことが、各種の史料から分かる。

 蓮如が第8世を継ぐ際には、これまでの本願寺の教えの再編成を行っている。それは「阿弥陀如来」を本尊と規定する一方で、諸仏との混在を否定し、本願寺にあった他の本尊・絵像類を焼却し、「川ニナカシ」という激しいものであった。

 これはかなり過激な教義の再編成で、結果的に叡山に本願寺を攻撃する口実を与えてしまったわけであるが、教団内における反発は強くはなかった。何故かというと、蓮如は部屋住みの若いころから(はっきりと明言はしていなかったが)こうした思想の元に精力的に活動していたからなのである。

 蓮如の部屋住み時代は、やたらに長い。得度したのが17歳の時で、第8世を継いだのは42歳のときだから、四半世紀にも渡るのだ。この時期よく通っていた近江や三河においては、10年単位という長い時間をかけ門徒らを教え導いている。

 この時代の蓮如とは、門徒との間に個人的な人間関係を結ぶことが可能な状況で、誰でも気さくに会って直に薫陶を受けることすらできた。そうした下地があった故に、門主になってから始めた彼の改革は、スムーズに受けいれられていったのであった。

 北陸に居を移してからも、蓮如の教化方法は基本的に変わっていない。三門徒派や高田派、はたまた時衆といった既存の集団を教化し、組織を丸ごと本願寺に組み入れる、という形で教線の拡大が行われている。今まで行ってきた近江や三河における教線拡大のパターンと基本的には同じなのであるが、しかし拡大する規模とスピードが遥かに違ったのだ。

 並行して蓮如はこれまで彼らが奉じていた教えを一掃し、新たに教化する努力はしたのだが、何しろ導くべき人々はあまりにも多く、次から次へと凄まじい勢いで増えていったのである。もはや蓮如その人と個人的な人間関係を結ぶことは難しくなっていた。であるならば教団を組織化し、運営をシステマチックに行う必要がでてくる。これはどんな宗派も巨大化するにあたって必ず通る道であり、この時期それをうまく仕切っていた人物こそが、下間蓮崇であったのだ。

 そうなると副作用として、教祖である蓮如その人と門徒との距離が遠くなるのは必然であった。実際、北陸の信徒たちの多くは蓮如のことを、往生与奪の権を持つ「生き仏」として、崇拝の対象と見なしていたようだ。これは三門徒派や高田派、そして時衆の「善知識(高位の僧侶)」に対する態度と近い。

 実際に一揆をおこした急進派門徒たちの特徴を記した史料がある――「彼らは『和讃』『正信偈』ばかりを用い、念珠は持たず『一益法門(信心を得た瞬間、そのときから仏になるという教え)』の傾向が強く、一遍の念仏も申さず、善知識だのみを特徴とし、弓矢をとることを当然と考えている」という内容だ。

 これらの特徴は、三門徒派の教義と驚くほど一致する。つまり急進派門徒らの主力は、本願寺に帰依したばかりの旧三門徒派らであった可能性が高いのだ。蓮如一揆への参加を叱った「お叱りの御書」というものが金沢の吉藤専光寺に存在するが、この専光寺も元来は三門徒派の寺院であったと考えられている。

 

画像は福井県福井市にある、三門徒派の総本山・専照寺御影堂の昭和初期の写真。三門徒派の歴史は複雑である。親鸞の弟子であった真仏は関東において高田派を率いたが、その系列の弟子である如道は越前を中心に活動した。彼は越前のみならず、若狭・近江まで教線を伸ばすことに成功し、如道教団が成立することになる。しかし如道はその後、本願寺3世の覚如と出会い、彼に教化され弟子となるのだ。本願寺に取り込まれたわけではないが、その影響を強く受けているのである。しかし如道の教義は浄土宗や時衆のものと近しいものがあったようで、その跡を継いだ者たちは立て続けに浄土宗に宗旨替えしてしまい、教団は大混乱するのであった。いろいろあって結局は、横越證誠寺鯖江誠照寺・中野専照寺の三寺を中心として発展することになり、三門徒派と称されるようになったのである。

 

 次に考えておかなければいけないのは、「一向一揆」が発生したタイミングである。ムーブメントが華開くには、その前段階としての機運が醸成されていなければならない。具体的にいうと1400年代中期は、日本において大きな社会的変動があった時期であった。一向一揆に先立つ形で、「土一揆」や「国一揆」が全国的に頻発していた時代だったのである。

 経済的困窮から馬借や奉公人・庶民らが結束して一揆を形成し、借金棒引きなどの徳政令を求めた「土一揆」。国人層らが自治権を求めて一揆を組んだ「国一揆」。どちらにせよ、上部権力の横暴に対して結束し一揆を形成する構図は同じである。

 

土一揆に関してはこちらの記事を参照。馬借はここでも暴れている。

 

 北陸の一向一揆に関して言うと、彼らは信仰という分母を利用して一揆を組んだわけだが、その動機は年貢の不払いだったり、自治権の要求であったりしたわけで、目的とするところは土一揆、或いは国一揆とそう変わりない。学者によっては「一向一揆は、土一揆の一種である」という説を述べる人もいるくらいだ。確かにそういう面が強かったことは否めない。そもそも当時「一向一揆」という言葉は存在せず、関わった人々もこれら一連のムーブメントを「土一揆」として捉えていたようである。

 とはいえ、やはり宗教の力は凄いのだ。日本史上、一揆をまとめるツールとして信仰が利用されたのは一向一揆が初めてのケースであり、これまでの土一揆とは質・量ともに明確な違いがあるといえる。

 仮にこれを「土一揆の変形」と捉えるとするならば、分母はなにも本願寺の教えでなくてもよく、他宗派でもいいわけである。しかし例えば三門徒派の教えのままでは、ここまで巨大なムーブメントは起こらなかったのではないだろうか。蓮如という稀代のカリスマがいて、彼の教えが北陸に遍く浸透したからこそ、領国をまたがる横断的な連携を可能とし、ここまで大きな一揆の発生を可能としたのだ。

 以下、ブログ主の個人的な考えをまとめてみよう――当時の社会構造であるが、全国的な規模で「土一揆」「国一揆」ムーブメントの発生を可能とする状況となっていた。ここ北陸においてもそれは同じであったが、タイミング的にちょうどやってきた蓮如の教えと激しい化学反応を起こしたのである。その結果、規模・質ともにこれまでにない新しい「一向一揆」という形で爆発した。

 しかし教団はあまりにも急激に膨張したせいで、蓮如のコントールから外れてしまう。北陸の門徒たちは本願寺派の教えに帰依することで、領国を超える規模で一揆を組むことを可能としたが、蓮如の教義に関してどこまで真摯に理解していたかは疑問である。特に旧三門徒派らは、蓮如の教えを「これまで奉じてきた教えの延長線上のもの」として捉えていた節がある。

 いずれにせよ急進派による「湯桶一揆」は失敗に終わり、蓮如は吉崎を去った。以降、本願寺門徒らの活動は、表立っては大人しくなったようである。

 しかし加賀における本願寺の勢力は、消えることはなかった。一向一揆という禁断の果実の味を、人々は既に知ってしまった。世の中の仕組みは既に変わってしまったのである。蓮如がいなくなっても、門徒たちで構成された「郡」組織はなくなることなく、そのネットワークは機能し続けた。影の統治機構として、更に深く静かに根を張っていくのである。(続く)