加賀国内において、その勢力を伸長させてきた本願寺勢力。前記事で紹介したように、本願寺門徒らで構成された「郡」という組織が、地域の統治を勝手に行うようになっていた。名目としては守護こそが国を統べる存在なのであるが、国内にもうひとつ別の統治機構が発生したようなもので、富樫氏としては看過できる問題ではなかったのだ。
特に目に余ったのが本願寺門徒(メインは在郷武士ら)による、年貢の未進であった。

加賀には全国に3000以上の末社を持つ、加賀国一之宮・白山比咩神社こと白河宮がある。この神社に伝わる「白山宮荘厳講中記録」という記録には、1474年に幸千代が加賀から追い出されたのち、白山宮の持つ荘園の年貢未進が急激に増えた様子が記されている。そのせいで神事が滞ってしまう有様であったようだ。これら年貢未進の犯人は、もちろん本願寺門徒らである。かつては「馬の鼻も向かぬ」と言われるほど、その威勢を恐れられた白山宮であったが、本願寺門徒の勢いには抗しきれなかったのだ。なお白山宮は富樫政親の本拠地である山内庄の隣に位置しており、幸千代と戦った際には最後まで政親に味方してくれた寺社勢力であった。このように守護の与力ともいえる勢力に対する未進が相次いでおり、政親にしてみれば許せることではなかったのである。1531年には一向一揆によって社殿が全焼、廃社寸前まで追い込まれたが、98年になって前田利家の手によって復興されることになる。現在はスピリチャルなスポットとして有名なようだ。
こうした現地勢力の反守護的行為に対し、蓮如自身はどう関わっていたのだろうか?基本的に蓮如は、争いは好まない人であったのは、これまでの記事で見てきた通りで、暴力的な行為を苦手としていた節も見られる。
幸千代を追放した「文明の一揆」の際には、自ら一揆の蜂起を呼びかけて戦いを先導している。だがこれは例外であって、蓮如にしてみればあくまでも「高田門徒らに対する聖戦」という位置づけであったのだ。幸千代という守護勢力は高田門徒らの庇護者であったが故、結果的に敵対したに過ぎない。
いずれにしても、蓮如がここまで一揆に対して能動的に関わったのは、「文明の一揆」が最初で最後であった。実際に彼は、文明の一揆が終わった後「このような戦いは私の望むものではなかった。今後はこのようなことを企ててはならない。今後はお上には逆らってはいけないし、年貢の未進などもっての外である」という旨を述べている。
蓮如は「他力による往生」、つまりは「来世における救い」を目指した。同時に「現世における救い」をも目指したが、それは「往生」が確定したことを知ることで、精神的な救いがもたらされた状態を指すのであり(この考え方を二益法門と呼ぶ)、自らの教えに則った「仏法王国」を進んで建設しよう、という意思は薄かったのである。(ただしゼロではなかったようだ。これについては後の記事で触れる)
しかし加賀における門徒たちの動きは止まらない。1475年3月下旬、一部の急進的な門徒らが遂に蜂起したのである。河北郡の武士・洲崎藤右衛門と、湯涌谷の土豪・湯涌次郎右衛門を中心とした一揆勢で、坊主だけで200人ほどの集団であったようだ(ここでいう坊主とは専業の僧侶ではなく、本願寺に帰依した武士たちを主に指す)。しかしこの「湯涌一揆」はあっという間に富樫軍に鎮圧され、敗れた彼らは東の越中国・瑞泉寺へ逃れることになる。
一揆の失敗からそれほど間を置かず、逃亡先の越中より一揆のリーダー洲崎藤右衛門と湯涌次郎右衛門の両名が、はるばる吉崎御坊にいる蓮如の元を訪ねてきた。戦いに敗れてしまったからには、これ以上逆らっても仕方がない。一揆勢は方針を変更して、富樫政親に対する和睦交渉と、還住の許しを得るための仲介を蓮如にお願いしにきたのである。そんな2人の前に現れたのが、吉崎御坊NO.2の座にいた下間蓮崇であった。
蓮崇は2人に対して言う――「今から上人をお呼びするが、上人の意志はあくまでも徹底抗戦である。諦めず戦うように」と述べる一方で、蓮如には「両人はやる気満々ですよ。ここまで来たらもう止められません。せめて一言、激励してやってください」と伝えたのである。
どうも蓮崇は、吉崎における主戦派を代表する人物であったようだ。この時期の吉崎は、蓮如とその親族を中心とする非戦派と、蓮崇と多屋衆を中心とする主戦派とで分かれていたのである。しかし流石の蓮如も、絶大な信頼を寄せていたはずの蓮崇が、まさか二枚舌を使ってまで己を謀るとは、思ってもいなかったのであった。
互いの真意を知らないまま、短い会見が設定される。両者に対し蓮如は「この度は大義であった。委細は蓮崇と話し合うように」との言葉だけかけて、奥へと引き下がってしまう。両人は改めて、蓮如の意志は徹底抗戦であると理解し、越中へ戻ったのであった。
同年6月、湯涌谷衆を中心とした一揆勢は、蓮如の言いつけ通り再び蜂起する。この合戦についての史料は殆ど残っておらず、小競り合い程度の戦いだった可能性が高いのだが、いずれにせよこの2度目の蜂起も政親軍によってあっけなく鎮圧されてしまったのである。
蓮如はこれに深く憂慮する。自分の本意でなかったとはいえ、さすがに蜂起が2度に及んでは安穏とはしていられなかった。ことは本願寺 vs 富樫氏という構図になりつつあったのだ。また吉崎御坊がある越前の地を統べる守護代・朝倉孝景は、富樫政親とは盟友関係にあったから、下手したら両者の挟み撃ちになってしまう可能性すらあるのだ。
このまま吉崎にいたとしても、暴走しがちな北陸の門徒たちに利用されてしまうだけである。悩んだ挙句、蓮如は吉崎御坊からひそかに退去することを決意するのだ。頼りになる長男・順如が全ての手はずを整え、御坊にほど近い湖岸に秘密裏に舟を着ける。
8月21日早朝、息子たちに先導され蓮如が舟に乗り込もうとする。順如がまず乗ろうとしたところ、舟の奥に先んじて男がひとり背中を丸めて蹲っているではないか。怪しんだ順如が「何者だ」と声をかけ、引き立ててみたところ、男はなんと蓮崇であったのだ。
主戦派の筆頭であり、今回の始末の最大の戦犯である。怒れる順如は、蓮崇を容赦なく舟から叩き出した。舟に乗り込む蓮如に向かい、蓮崇は泣きじゃくりながら許しを乞うたが、蓮如の表情は固いままであった。遠ざかっていく師を乗せた舟に向かい、蓮崇はただ地に伏して泣き続けたという。
こうして蓮如は、4年間に渡って精力的に活動した吉崎御坊から去ったのである。彼は二度とここには戻らなかった。蓮如が去ったのち、和田本覚寺が吉崎御坊の留守を預かることになる。
それにしても彼ら北陸の本願寺門徒は、なにゆえ蓮如の意志に背いて暴走したのであろうか?次回の記事では、そのあたりのことをもう少し細かく見ていこうと思う。(続く)