江戸期の五箇山の生活は、相当厳しいものでした。
そもそも五箇山は、深い峡谷沿いに点在する集落の集合体です。まとまった平地がほとんどなく、稲作ができません。猫の額ほどの耕作可能な土地で作られていたのは、主に粟・稗などの雑穀類でした。
この辺りには古くは縄文時代の遺跡があることから分かるように、ただ食っていくだけでしたら生きていけるのですが、年貢を納めるとなると話は別です。米を納められない五箇山は、代わりに産業商品物を育て、それを銭に変えて銭納しなければならないのでした。
具体的には養蚕・紙漉き、そして塩硝製造になります。これら3つに関しては次の記事で詳細をお伝えしますが、この記事ではまずは五箇山の厳しい生活ぶりについて紹介したいと思います。
江戸期の五箇山には70の集落があり、多くの合掌造り家屋が建てられていました。ですが現存しているこうした大きな合掌造りには、1軒につき1世帯が住んでいたわけではないのです。ではどのような単位で住んでいたのでしょうか。
まず世帯主の一家がいます。一家の長(隠居した先代も)がヒエラルキーの頂点になります。次にその子供・妻です。クラス的には彼らが一番上ということになります。その次に世帯主の兄弟姉妹がいます。彼ら・彼女らは可能なら他家に婿入り・嫁入りをします。しかしながらそれが出来なかった場合、そのまま生まれ育った家で、生涯独身の働き手として暮らしていかなければいけません。
婚姻・分家は不可能です。五箇山では世帯の数が一定数を越えないように厳密にコントロールされていたので、分家は相当な理由がなければ認められなかったのです。悪い言い方をすると、一生飼い殺しということになります。
しかし、彼らはまだいい方なのです。その下に丁稚奉公に来ている人たちがいました。彼らは純粋な労働力として、その家に仕え続けます。こちらも婚姻不可能でした。
上記3つのクラスの人々が、1軒の合掌造りの家の中に共同で暮らしていました。大きな家だと50人(!)が常時暮らしていたようです。この中でも世帯主の扱いは別格で、一番いい場所に一段だけ高く造られた部屋「ちょうだ」があり、そこには他の人たちは立ち入りできないことになっていました。

上梨集落にある国指定重要文化財・村上家。築350年とのことで、建てられたのは何と天正年間、戦国期の終わりになります。右画像、「おえ(居間)」の後ろにある部屋が、世帯主家族が住む空間「ちょうだ」になります。唯一、壁で区切られており、一段高くなっているのが分かります。
江戸期の農村では、このような形の家族制度がスタンダードでした。ただ地域によって、程度にはかなりの差がありました。一般的には環境が厳しければ厳しいほど、世帯主の権力が独裁的に強くなる傾向にあります。例えば江戸期の長野県・伊那谷南部には、悪名高い「おじろく・おばさ」制度がありました。
恐るべし「おじろく・おばさ」制度については、こちらのWikiの記事を参照。閉塞感が物凄いです。小さなディストピアですね。なお江戸期の農村ですが、大都市につながる幹線道路に近ければ近いほど、こうした面は弱まっていきます。これは食い詰めたら逃避先である(食っていける)都市にアクセスが容易であったからと思われます。百姓が田畑を捨て、都市に移住することを「逃散」と呼びますが、これは江戸幕府の悩みの種でした。幕府や大名の収入は、農村で百姓が生産する田畑からの米が基でした。一方、都市に住む零細商人や職人からは税を取れません。百姓が減り都市人口が増えるのは、単純に収入減につながるのです。
五箇山における江戸期の民俗学的記録は少ないので、当主の後継ぎ以外の兄弟姉妹の扱いがどのようなものであったか、正確には分かっていません。ただ五箇山は「環境が隔絶されている」という点においては、長野県・伊那谷以上だったかもしれません。
では五箇山においても「おじろく・おばさ」的存在がいたのかというと、以下はブログ主の推測に過ぎないのですが、おそらくはいなかったものと思われます――理由は次の記事で述べます。ただ五箇山のそれは、一般的な農村よりも厳しいものであったことは間違いないでしょう。
五箇山の隔絶された環境は、もちろん地形的な要因もあるのですが、それ以上に加賀藩によって意図的に推進されていた面が強いです。流刑地であったということも、また次の記事で述べますが、軍事戦略物質である「塩硝」生産地であったことも、そうした要因に拍車をかけました。分かりやすい例が「籠の渡し」で、橋を架けること自体が禁止されていました。交通を遮断し、敢えて隔絶させていたわけです。
菅沼集落は五箇山を代表する観光名所のひとつですが、MAPを見ると面白いことがわかります。

菅沼集落MAPより一部抜粋。合掌造り家屋は全部で12戸、うち9戸が住居として使っている家屋とのことです。合掌造りの定義は細かくて、一見それらしくても認められていない家屋もあるそうです。9戸のうち、江戸末期のものが2、明治時代が6、大正時代が1とのこと。明治に建てられたものが多いのは、1892年(明治24年)に大火があって多くが焼けてしまったからです。
上記のMAPですが、中央にある集落より外れて、ひとつだけぽつんと立っている合掌造りの家屋があります。「羽場家(羽馬家とも)」と書かれているのがそれです。1軒だけ集落から15分ほど歩かねばたどり着けないほど、離れたところにあります。
一見、村八分のような扱いでも受けていたのかと思ってしまいますが、そうではありません。逆なのです。表記にもありますが、この家の家屋は県の重要文化財に指定されているほど特別大きく立派な合掌造りなのです。それもそのはず、羽場家は前田藩より塩硝製造の元締めに指定された家で、村一番の裕福な一族であり、明治以降は代々村長を輩出していた家柄なのです。
ではなぜこんな離れたところにあるのでしょう。七尾和晃氏はその著作「幻の街道をゆく」において、羽場家は菅沼の関所のひとつとして機能していたのではないか?と推測しています。
谷沿いに集落が点在する五箇山から金沢に抜けるには、いくつかのルートがありました。菅沼より庄川上流域にある集落から金沢に行くとなると、小瀬峠を越えるのが一番の近道になります。羽場家はこの小瀬峠に向かう、唯一の道筋に建っていたのです。つまりこの家の前を通らないと、金沢に抜けられないのです(逆もまた然り)。
この羽場家には、たまに見慣れない人が住み着いていることがありました。その人は前田藩から送り込まれた役人ではないか、と村では噂されていたようです。(続く)

在りし日(1970年代?)の羽場(羽馬)家。かつて温泉付ユースホステルだった時期もあったようですが、大分昔に廃業して現在は普通の住宅になっています。なので泊まれた人は大変にラッキーです。五箇山には「羽馬家」の名称がついた合掌造り家屋が複数あるので、大変紛らわしいのです。なお、もうなくなってしまいましたが、この羽場家から小瀬峠に向かう先にはもうひとつ小さな集落があって、そこの家の姓は殆どが羽馬だったそうです。集落自体が関所だったのかもしれません。