根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

非人について~その⑥ 非人たちの既得権益「得分」とは

 当時の被差別民が携わっていた職能は多岐に渡っていたように見えるが、基本的には全てキヨメに関わるもの、ないしはそこから派生したものであった。過去の記事で「千本河原者」がキヨメの仕事に参入してきた「一本杉河原者」に対して、北野社に訴えを起こした話を紹介した。

 

 

 このように職能の縄張りに関して、彼らはとても神経を尖らせていた。こうした仕事に従事するにあたって、彼らはその都度、銭や米などの対価を貰ってはいた。川嶋将生氏の著作「中世京都文化の周縁」に、こうした仕事の対価についての一覧表が記載されており、それによると例えば「散所法師・熊に庭はきとして300文」「声聞師の井戸掘りに200疋(2000文)」などとある。

 仕事によって手間は異なるので、動員された人数も変わってくるだろうし、時代によっても報酬価値が変わってくる。この表を以てして一概には判断できないが、ただ対価としては極めて安価であったようなのである。

 にも関わらず、彼らが己の職域に関して他者の参入を頑なに拒んだ理由は、主に2つある。

 まずは代わりとして、他に何らかの独占的権益が与えられていたということ。その代価として、こうした夫役が課されていたということである。例えば大和の五カ所・十座に対する夫役報酬であるが、他の集団に対するものに比べて格段に低い。土木工事に対する報酬が1日20文、とある。両組織には「大和国に対する芸能の自専権」が与えられていたため、こうした低報酬になったようだ。声聞師を仕切る組織としての権益を保障されていた以上、彼らは手間賃レベルで夫役に応じる義務があったのである。

 もうひとつのパターンとして、己の職能に関わる分野においては、実は独占的な権益が付与されていたことがあげられる。それこそが仕事の対価であり、そこに本当の意味での「うまみ」があった、という仕組みである。

 ※以上ここまで、9月14日に内容を追加修正しました。

 例えば河原者は各種の刑罰の執行に携わっていたが、処刑された罪人の衣服は、全て彼らのものとなった。たかが衣服と馬鹿にしてはいけない。当時と今とでは、衣服の価値は全く違うのだ。戦国期に生きた女性の昔語りである「おあむ物語」には、おあむが7歳の時に買ってもらった小袖を、膝頭が出るまで着続けた、という逸話が残されている。

 同じように、犬神人の業務の一つに罪人の家屋破却がある。建物の大黒柱や梁に使われるほどの大きな古材は大変貴重なものであったから、それらは他の建物のためによく転用されていた。破却の際、犬神人は古材をちゃんと取り分けていた、という記録が残っている。

 

「拾遺古徳伝絵(常福寺本)」より。延暦寺の命に従い、敵対勢力であった浄土宗の「大谷廟堂」を破却せんとする犬神人たち。このように家屋の破却は、犬神人らの職能のひとつであった。1227年に発生したこの事件を、浄土宗側からは「嘉禄(かろく)の法難」と呼ぶ。なおこの時だけに限らず、延暦寺は以後何回も大谷廟堂を破却しているので、その度ごとに犬神人が動員されたことだろう。

 だが「転用に足らず」と判断された端材などは、彼らのものになっていた可能性がある。破却対象が大きな屋敷だったりすると、ちょっとしたひと財産になったと思われる。家屋の破却は見せしめ的な意味合いもあっただろうから、見物人相手に派手に壊すパフォーマンスを行っただろうが、案外裏では丁寧に解体したのではなかろうか。

 こうした既得権益を「得分」と呼ぶ。

 清水寺の近くの鳥野辺は、古来より京最大の葬送地であった。そしてここに向かう葬送の列には、必ず犬神人たちが先頭に立っていた。葬送を犬神人らが取り仕切っていたのである。そしてこの葬送において使用される葬具や衣類など(本来は副葬品であったもの)は、すべて犬神人らが貰いうける権利があったのである。これが過去の記事で少しだけ触れた「洛中における葬送権」である。

 このように彼らの業務は各種利権とも絡んでいたから、縄張り争いもよく起こっていた。1471年4月、とある葬儀の際に河原者が死者の衣装を取得したことを機に、葬送の既得権を主張する犬神人が押しかけて訴訟沙汰になり、最終的には河原者が勝訴したという事例が残っている。

 本来、洛中の葬送に関する権利は犬神人が有するものであり、死者の衣類も犬神人のものになるはずなのだ。だが河原者が関わるキヨメとして穢物掃除を行うことがあり、このころ多発していた土一揆が発生した際には、戦死者の取り片付けを命じられていた。こうした前例から、河原者が権利を拡大させていったものと見られている。

 更に犬神人らにとって看過できなかったのは、15世紀から16世紀にかけて新たに発生した、葬送に関する新しいトレンドである。これまでのように鳥野辺に葬るのではなく、もっと近場の墓地に葬る寺が増えてきたのである。わざわざ遠くまで運ばずに、近隣にある己の寺領の中に墓地を造り、そこに遺体を葬るようになってきたのだ。

 犬神人にしてみれば、本来手に入るはずであった葬具や衣類が手に入らなくなってしまうことになる。ということで犬神人は、金光寺や東寺などこれら別個に墓地を持っている寺に、己の既得権益に対する補償を主張するようになる。彼らが本来得られるはずであった葬具や衣類をよこせ、というわけである。

 現代の感覚から言うとかなり無茶な論理に思えるが、当時の考えとしてはそうではない。中世は、古来からの慣習や権利を大変に重んじる時代なのだ。訴えは認められ、これらの寺社は犬神人に補償として物の代わりに銭を払うことになっていく。犬神人らは、最終的には洛中全ての寺院にこの権利を拡大させていくのだが、これを「洛中の葬送得分」と呼ぶのである。

 このように当時の職能には、食っていくうえで不可欠な「得分(利権)」が絡んでいたのである。非人や河原者らに限ったことではないのだが、中世における各種の職能を考えるときに、これらの既得権益を無視して理解することはできない。別のシリーズで延べるが、京周辺の馬借・車借たちが土一揆法華一揆の際に京衆の敵に回ったのも、そうした利権が関係していたのである。

 なお「洛中における葬送得分」は、既得権利への補償として銭納化されたわけだが、後世には一種の「金融商品」として借銭の担保や、売り買いの対象になっている。犬神人らがこれを手放したであろう時期と、その階級上昇はほぼ同じタイミングなのが興味深い。何らかの関連性があると思われる。(続く)