先の記事で紹介した騒動から10年ほどたった1224年、清水坂で大きな動きが起きる。奈良坂の後ろ盾で復権したAが、何とその支配からの脱却を狙ったのだ。奈良坂からの入り婿であった淡路法師をはじめとする、吉野・伊賀・越前法師ら、奈良坂派の長吏らを一斉追放したのである。
これに怒った奈良坂宿は、武闘派の播磨法師率いる手勢に清水坂宿を攻めさせる。同年3月25日に清水坂で行われたこの戦いで、敗れたAは殺されてしまうのであった。
このあと清水坂宿は、Aの息子が新たに後を継いだようだ(やはりその名が伝わっていないので、これをBとする)。しかしBは、父を殺された恨みを決して忘れなかったのである。
奈良坂宿の下に、真土宿という非人宿があった。ここの長は近江法師という名の長吏であったのだが、1240年頃に本宿である奈良坂宿との関係が悪化してしまう。そこで近江法師は己の支配する真土宿の、奈良坂宿から清水坂宿への鞍替えを密かに謀るのだ。
この動きにBが呼応する。己の父(A)を殺した仇である播磨法師は、1225年に既に死亡していたが(婦女子を誘拐した罪で死罪)、その地盤を受け継いでいたのだろうか、播磨法師の姉婿である淡路法師の殺害を試みる。だが企ては事前に露見してしまったようで、失敗している。
また近江法師は己の婿であった、豆山宿の長吏・浄徳法師に調略の手を伸ばす。同じように奈良坂宿から離反させるべく誘ったのだ。だがこの動きも事前に察知され、浄徳法師は奈良坂へと召喚されてしまう。
謀ごとがことごとく露見してしまった近江法師は、ここに至ってはっきりと旗幟を鮮明にせざるを得なくなる。奈良坂から正式に離反しようとするのだ。だが身近に強力な反対派がいた。彼の実弟である法仏法師である。
そこで近江法師はAと結託して、反対派である法仏法師とその弟子・大和法師を紀伊国・山口宿へと誘い出す。両者はそこでAの放った刺客である、甲斐の摂津法師に殺されてしまうのであった。
こうして真土宿を押領した清水坂であるが、幕引きを図るため奈良坂に和睦を申し入れている。勝ち逃げを図ったものと思われるが、奈良坂が納得するはずもない。和睦を持ちかけたその裏で、清水坂は六波羅探題に「奈良坂が清水坂に放火した」という訴えまで起こしているのだ。
この放火の件だが、おそらくは1220年3月に発生した、清水寺が焼失した火災のことと思われるのだが、この真土宿の件から遡ること20年も前の話である。相当無理筋な訴えで、奈良坂はもちろんこれに反論、真土宿の件も併せて清水坂の非道を逆に訴えている。
一連の事件の結果がどうなったかは分からない。しかし内容といい、規模といい、期間といい、地方の国衆のやっているお家騒動や、勢力争いと変わらない。それぞれのバックに延暦寺と興福寺があるだけに、中央政権の関係者を多く巻き込んでおり、影響力の点ではそれどころではないほど大きかったといえる。
また先述した通り、清水寺は奈良の興福寺の末寺であった。京をその前庭とする比叡山延暦寺にとってみれば、ひどく目障りな存在であったようで、清水寺は常に延暦寺からの圧力にさらされていたようだ。
1213年には清水寺の僧20人が比叡山に登り、興福寺ではなく延暦寺への末寺化を望んだので、その訴えを納受した、という記録が残っている。この動きに興福寺は強く抗議、最終的には後鳥羽上皇の院宣を獲得してこの訴えを退けているのだが、記録にはこの20人は僧ではなく、非人である乞食法師であったという記述があるのだ。
網野善彦氏によると、比叡山に登ったこの20人は長吏であった可能性もあり、だとするとこの動きは時期的には先の記事で述べた、Aに対するクーデターとも関連していた可能性が高い。もしかしたら登山メンバーの中に、反乱を企てた8人も入っていたかもしれない。
つまりこの一連の騒動は、延暦寺と興福寺の争いと連動していることになる――その企ては大失敗して、逆に清水坂は奈良坂に一時占領されてしまったわけだが。事実、8人のリーダー格・阿弥陀法師が近江に落ち延びる際には、延暦寺の影響下にある祇園林経由で逃亡しているのだ。
またその後に起きた、真土宿を巡るゴタゴタも同じ構図である。Bが起こした無理筋の訴訟は1243年のことなのだが、その前年の42年4月からこれとタイミングを合わせるように、延暦寺と興福寺の間で清水寺を巡る「堺争論」が発生している。これは清水寺の寺院建設地が延暦寺の寺領であった、ということから発生した争いなのだが、訴えを起こしたのは延暦寺の方なのだ。
延暦寺と清水坂が機を同じくして、興福寺と奈良坂に攻勢に出ているわけで、これも偶然ではなく、互いに連動した動きなのである。(続く)