根来戦記の世界

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非人について~その④ 清水坂vs奈良坂 非人宿同士の三十年戦争(上) 清水坂を占領した奈良坂

 犬神人は清水坂宿に所属していた非人である。その清水坂宿は、近江から瀬戸内にかけて存在する、数多の非人宿を支配下に置く、いわゆる「本宿」であった。

 だがこの清水坂宿と並ぶ、強力な対抗勢力がもうひとつあった。奈良は興福寺の近くにあった、奈良坂宿である。奈良坂宿もまた、大和・伊賀を中心とした多くの非人宿をその支配下に置く「本宿」であり、畿内にある非人宿は全て、この2つある「本宿」のどちらかに属していたと思われる。

 この2つの勢力の間で、合戦に近い縄張り争いが発生したことが分かっている。清水坂宿は祇園社(=延暦寺)の管理下にあり、奈良坂宿は興福寺の管理下にあったから、実のところこれは、中世にあった2つの強力な寺社の争いでもあった。なので、当時の複数の記録に残っているのだ。

 1210年頃に端を発した、この両坂の争いの経緯は複雑である。どうやら清水坂宿におけるクーデターが契機だったらしい。

 「清水坂宿の長吏」(名前が記されていないので、これをAとする)が、重臣である配下の8人(阿弥陀法師、山﨑吉野法師ら)に反乱を起こされた。Aによる「苛法の政」が原因だったとあるが、要するに派閥争いからくるお家騒動であろう。Aは清水坂宿を追い出され、自派に属していた小浜宿に逃亡する。

 A派の重鎮であったと思われる小浜宿の長吏・若狭法師と、Aの娘婿である薦井宿の長吏・吉野法師は、Aの復権を求めるため、武装集団を率い京に向かって上洛を開始する。しかし淀津の相模辻にて、クーデターを起こした8人のうちひとり、山﨑吉野法師(名前が同じなので紛らわしい)が率いる手勢と戦い、これに敗れてしまう。両者は多くの兵具を奪われ、奈良坂へと落ち延びる。

 これを機に、清水坂宿の争いに奈良坂宿が正式に介入することになる。逃げてきた若狭法師と吉野法師を無事に小浜宿へと送り届けてやり、Aと接触するのである。そこで何らかの話し合いが行われた結果、奈良坂宿はAの復権に合力することになるのだ。

 奈良坂宿は、その上部機関である興福寺別当の二条僧正と、清水寺別当の東室法印に対し、京の政界においてロビー活動してもらうよう働きかける(清水寺は当時、興福寺の末寺であった)。こうして政治的なバックアップを担保した後、奈良坂宿は末宿の軍勢を集め、勧修寺越から清水坂へと押し寄せたのである。

 合戦の記録は残されていないことから、戦闘は殆ど行われなかったものと思われる。この攻勢に清水坂のクーデター8人衆は耐え切れずに逃亡、ないし屈服してしまう。奈良坂の軍勢は「延年寺の引地」に、なんと50日間も陣を張り(この間、清水坂をほぼ占領したことになる)、戦後処理を行う。清水寺別当経由で後鳥羽上皇の宣旨を得て、Aを清水坂の長吏の座へと戻すことに成功したのである。

 クーデターを起こした長吏8人のうち7人はAに降参したが、首謀者であったらしい阿弥陀法師は近江に逃亡する。おそらく彼の本拠地であったと思われる金山宿に立てこもり、城郭を構え近江の末宿を従えようとしたが、奈良坂の兵に攻められ、鎮圧されてしまう。その生死は不明だが、おそらく殺されてしまったとものと思われる。

 

江戸後期の1844年に作成された「和州奈良之図」。東が上になっているのに注意。右の図、地図全景の赤い🔲部分を拡大したのが左の図。「北山十八げん」と描かれた長屋がある。これは鎌倉期に創設された、籟病を患っていた非人たちの収容施設であり、奈良坂宿の管理下にあった。

 

Wikiより画像転載「北山十八間戸」。上記の地図にあるのと同じ位置に今もあるが、中世には般若寺の北東にあった。松永久秀が大仏殿を焼いたことで有名な、1567年に発生した「東大寺大仏殿の戦い」において焼失した後、現在地に移った。

 

 こうして反乱は終息したわけだが、この件によって奈良坂宿は清水坂宿に対して優位に立ったようだ。Aの復権にあたって何らかの取引が行われたと思われる。例えば奈良坂宿長吏の息子・淡路法師が、Aの娘に婿入りしているのが確認できるのだ。内容を見る限り、奈良坂の完全勝利である。

 一連の騒動で興味深いのは、奈良坂宿が上部機関である興福寺清水寺を動かしているところだ。だが奈良坂は、両寺の政治的な働きかけのみに頼ったわけではない。これはあくまでも担保なのであって、実際に大勢の軍勢を動員し、清水坂に攻め入ったことが、この騒動の決定打となっているのである。

 非人たちは被差別民であったがために、奴隷的な存在であったと見る向きが昔は強かった。しかしこうしたことから分かるように、彼らは興福寺清水寺別当を動かしうる存在だったのである。またそれだけに頼ることなく、実際に軍勢を動かし実力を行使するなど、自律的な軍事力を持っていたことも確認できるのである。

 このように非人は奴隷的な存在ではなく、あくまでも中世を構成する職能民のひとつであり、他の職能民と同じように一定の権利と、それを裏打ちする力をも有していたことが分かるのである。(続く)