根来戦記の世界

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根来寺・新義真言宗について~その⑤ 過激派によるテロ・覚鑁殺害未遂事件「錐もみの乱」

 高野山を実質的に統べる立場にある「金剛峯寺の座主」に就任することは、覚鑁の強い意志によるものだ。だが彼は決して名誉を求めたわけではない。その証左に、翌1135年には弟子である真誉に、金剛峯寺と大伝法院、両座主の座をあっさり譲ってしまい、自分は密厳院にて趣味?である無言行に入ってしまっている。

 ではなぜ彼は、そこまでして金剛峯寺座主の座を求めたのだろうか?

 そもそも高野山のトップである金剛峯寺座主の座は、これまでずっと京にある東寺のトップ、東寺一長者が兼帯してきた。「本末制度」により、高野山は東寺の末寺化してしまっていたことは過去の記事で述べたが、覚鑁はこれを問題視していたのである。1134年、金剛峯寺座主に就任した彼は、新たに以下の3つのルールを定めている。

 

①・伝法院座主は覚鑁門跡が師資相承すること

②・「住山不退・弘法利生の者」が座主となる資格を有すること

③・伝法院座主が伝法院・密厳院など200余僧の補任権を掌握すること

 

 ①番と③番は要するに、引き続き改革派が高野の実権を握ることを目的として定めたものである。問題は②番の「座主の住山不退」であるが、これはつまり座主は山から下りるな、ということである。彼はこう書き残している――「在洛名利に囚われた東寺長者の元では、住山乗戒の禅徒を指導することはできない」。

 覚鑁は、高野山の東寺からの自立を目指したのである。上位に東寺がいる限り、高野の改革は進まない。そこで覚鑁は、まず自らが金剛峯寺の座主になることで、大元のルールを変えてしまったのである。

 まず、その①で「座主は覚鑁の意思を継ぐものに限り」、その②で「東寺の者を座主から排除し」、その③で「山内の僧の補任権を握る」ことで、山内の主導権を打ち立てようとしたのであった。ここまでしなければ改革などできない、と認識していたのだろう。

 しかし覚鑁は、元は仁和寺で修行した僧である。彼が身に着けた学識、特に事相は仁和寺系統のものである。東寺にしてみれば、金剛峯寺仁和寺に代表される、外部勢力に乗っ取られてしまったように見える――実際に覚鑁は、山内で催される法会においては、「高野山で修行を積んだ僧のみが、役務につける」という、これまでのルールを変えている。大伝法院が開催する法会においては、京や奈良で修行を積んだ客僧でも、役務が担えるようにしていたのである。そして高野生え抜きの僧たちは、これに強く反発したのであった。ことは寺内に留まらず、仏教界を巻き込んでの政争、そして権益を巡る縄張り争いになってしまったのである。

 覚鑁金剛峯寺の座主に就任したのが1134年12月であるが、実のところその半年前の6月には、反対派が「非法」として東寺長者に訴えを起こしているのが確認できる。主張で特に目を引くのが「金剛峰寺座主と大伝法院座主の兼務の停止」である。

 重ねて言うがこの訴えを起こしたのは、覚鑁金剛峯寺座主就任の半年前である。にも関わらず、この時点で「両座主の兼務の停止」を主張していることから、既に「覚鑁が両座主を兼任しそうだ」という話が山内で出ていたことが分かる。

 ここから見えてくるのは「新興かつ外部勢力の、大伝法院なぞの思い通りにされてたまるか」という、金剛峯寺保守派の強い反発である。この時は鳥羽上皇の強い政治的支持があったため、反対派の意見はあっけなく潰されてしまい、半年後の覚鑁の両座主就任という動きにつながるわけだが、既に金剛峯寺には根強い反対派がいたことが分かる。

 そして覚鑁は遂に、金剛峯寺内の反対派を抑えることはできなかったのである。実のところ、就任1年にして両座主の座を後進に譲ったのも、覚鑁が政治的に不利な立場に立たされた結果であると思われる。

 その証左に、1136年には東寺一長者である定海が金剛峯寺の座主に返り咲いてしまうのだ。東寺が高野の本寺であった、以前の形に戻ってしまったことになる。更にその翌1137年には、高野山における反覚鑁派の先鋒である良禅一派が、金剛峯寺ナンバー2の座である検校と、そしてよりにもよって覚鑁が建立し、教義上の改革の場であった、大伝法院の座主の座まで占めてしまうのだ。反対派に高野山のトップ3の座を占有されてしまった形となる。

 かと思うと、翌1138年、更なる巻き返しによって、今度は覚鑁派の若きホープ・隆海が大伝法院座主となる。このように、高野山の主導権を巡って激しい派閥争いが繰り広げられるのだ。

 派閥争いの行きつくところは、過激派による実力行使である。1140年、遂に反対派は兵を挙げ、覚鑁の自所であった密厳院を襲撃、ここを焼き払ってしまうのだ。覚鑁自身も殺されかけたところを危うく逃れ、弟子たちと共に命からがら山を下りた。向かった先は大伝法院が抱える荘園のひとつであった、弘田荘にある豊福寺(ぶぷくじ)だ。

 

過激派ら(間違いなく行人たちであろう)は覚鑁の命を狙い、その自所であった密厳院不動堂を襲撃したが、覚鑁は辛くも窮地を逃れている。伝説によると、乱入してきた過激派らであったが、不動堂には覚鑁の姿は見えず、ただ代わりに1体しかないはずの仏像が2体あった。一心に観想念仏していた覚鑁は、仏像と化していたのである。どちらかが覚鑁に違いないと考えた過激派らが、試しに錐で膝を刺したところ、双方の像から血が流れたため仏罰を畏れて退いた、とある。これが覚鑁殺害未遂事件、「錐もみの乱」である。なお高野山には今も密厳院が存在するが、この時に焼けてしまったようで、建物は同じものではない。画像にあるのがそれであるが、現在の密厳院には宿坊があり泊まれるようになっている。情けないことに2020年9月から2年間、休業したと虚偽申請し、コロナ用の雇用助成金あわせて約621万円を不正に受給していたことが分かり、つい最近にニュースになっている。

 

 この地において覚鑁は再起を図るべく、改めて神宮寺、そして彼のライフワークである伝法会を開催すべく、円明寺を創建したのである。しかし自身はこの地に来て、僅か3年で亡くなってしまったのであった。

 上記で説明した通り「錐もみの乱」の際には、テロリストたちは仏像、そして仏像と化した覚鑁の両者を共に刺した、と伝えられている。この時、覚鑁は実際に刺されて負傷しており、その際の逸話をこのような伝説に昇華させた、ということかもしれない。そうだとしたら覚鑁はその傷の後遺症で若死にしてしまった、という可能性もある。

 いずれにせよ、覚鑁という巨星は墜ちたのである。しかし覚鑁の衣鉢を継ぐ者たちの多くは、翌年には再び高野に戻り、彼の思想を守り広げるための戦いを始める。高野に大伝法院はまだ健在なのだ。覚鑁の興した新しい動きは、まだ終わったわけではなかった。(続く)