根来戦記の世界

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中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑪ 空海の後継者たち 天竺を目指し、南海に消えた高丘親王

 さて空海が開いた「東密」の方は、その後どうなっていったのであろうか。

 教義という点では、真言宗は大きな問題を抱えているわけではなかった。天台宗のように4つの宗派を統合する必要もなく、密教という単一の分野をただひたすらに深堀りしていけばよかったわけで、また空海は理論構築の天才でもあったから、彼の死後も教理上残された大きな課題というのは、そんなに残されているわけではなかったのである。

 そして空海には、多くの優れた弟子たちがいた。その代表的な10人を十大弟子と称するが、中でも有名なのは一番弟子である真済、最澄から離れて空海の弟子となった泰範、そして皇族出身の真如こと、高丘親王であろう。

 彼らは天台宗の僧らと同じように、遣唐使の一員として果敢に唐に渡っている。天台宗に対抗する意味合いもあっただろう。ライバルである彼らが密教を求めて入唐するのを、指を咥えて見ているわけにはいかなかった。こちらとしても最新の教学を入手して、教理をブラッシュアップする必要があったからだ。

 この頃、日本の国家体制である律令制の基幹をなす班田制が、ほぼ機能しなくなっている。加えて9世紀は全地球的に温暖化の時期にあたり、平均気温が1~2度上がったことから、干ばつや水害による飢饉が続出していた。国力の衰退は明らかで、支配者層はこれに対処する必要があった。

 その有力な対処法のひとつが、密教加持である「鎮護国家」だったのである。天台も真言も競ってこれを行ったわけであるが、そうなると大陸の最新の教学を取り入れた加持祈祷の方が、より効き目がある(ように思える)わけだ。唐入りした代表的な僧を「入唐八家」と称するが、空海最澄を除いた6人のうち、常暁(じょうぎょう)・恵運・円行・宗叡の4人は、いずれも東密系の真言を学んだ僧である。(残りの2人は前記事で紹介した、円仁と円珍。)

 この中では、特に常暁が成功した。彼は円仁と一緒のタイミングで唐に渡った真言僧であるが、栖霊寺の文際という高僧から「逆賊調伏・鎮護国家」に抜群の効果を誇る、あまりに効き目がありすぎるので秘法となり、授法は国禁とされていた「大元帥法」を特別に学んで帰国している。爾来、日本においてはこの「大元帥法」は、天皇の御前でしか行われない特別な祈祷法となった。その効き目は素晴らしく、856年の大干ばつの時はこの祈祷を行い、見事に雨を降らせているそうだ。また平将門の乱の際も、祈祷の霊験あらかたであった、と伝えられている(なお大日本帝国においては、国軍の最高指揮官として天皇大元帥とも称されるが、これはこの呪法から関連して名づけられた、という説があるようだ)。

 唐入りした僧は、他にもたくさんいる。違う意味で有名なのが、先に少し触れた高丘親王である(彼の法名は真如であるが、この記事では通りがいい高丘親王の呼称を使用する)。彼は平城帝の第三子であり(甥は在原業平)、一時は皇太子に立てられた未来の天皇だったのだが、「薬師(くすし)の変」に巻き込まれ失脚している。その後、出家して空海のもとに弟子入りし、地震により破損した東大寺の大仏の修復事業などに携わっている。

 そんな高丘親王であったが、どうも中国帰りの円仁と会ってから、入唐の望みを抱くようになったらしい。そんな彼に、渡航の機会が唐突に訪れた。861年に「諸国の山林を跋渉」するために西国に赴こうとした矢先、唐船が博多に来航したというニュースを耳にしたのである。漠然とした憧れであった入唐が、現実味を帯びた案として目の前に提示されたわけで、この年に齢62を迎える親王は、老境にして大陸渡航を志すのであった。

 実際に唐に渡ったのは翌862年9月で、結局は唐船ではなく、新規に建造した船に乗っての渡航であった。この時に同行したのが入唐八家のひとり、宗叡である。親王がここまでして入唐にこだわった理由であるが、どうも教理上の疑問があり、その答えを得るために大陸に渡った、ということのようである。残念ながら、彼の抱いた疑問がどんなものであったかは伝わっていない。しかし洛陽や長安で多くの名僧たちに会ったが、満足する答えは得られなかったようだ。

 そこで親王は、いっそ不空三蔵に倣って広州から海路、天竺に渡り、そこで答えを得んとするのであった。唐皇帝から正式な勅許を得て、長安から大陸を長躯縦断して広州へ。そしてここから、2人の僧と1人の供を加えた総勢4人の一行で、おそらく商船に便乗する形で、天竺目指して南海へ旅立っていったのである。865年、高丘親王67歳を迎える年であった。

 

真如こと、高丘親王。この時代、実は広州からインドへの航海はそんなに難しいものではなかった。親王が旅立つ約80年前に広州からインドに旅立ち、彼の地で密教経典を入手、再び中国に帰ってきたのが不空三蔵(不空金剛とも)である。空海の師、恵果はこの不空から密教を学んでいるのだ。唐は異民族が多く活躍できる国だったから(そもそも唐の皇室が異民族出身)、グローバルな国際交流が盛んだった。そしてこの広州こそは「海のシルクロード」の東の起点だったのである。記録には不空三蔵は崑崙船(こんろんせん)に乗って天竺に行った、とある。崑崙船とはベトナムないしタイ人の操る船で、親王も同じように崑崙船に乗って天竺を目指したのかもしれない。

 

 その後、一行はどうなったのだろうか?一説には親王シンガポールで虎に食べられてしまった、ともあるが伝聞に過ぎないので疑わしい。遭難したのか、病没したのか、それとも賊に殺されてしまったのか?いずれにせよ、高丘親王とその一行は、南海に向けて旅立ったまま、二度と帰ってこなかったのである。

 このように密教の最新教学を求めて、多くの真言僧らが果敢に海を渡っていった。彼らが持ち帰った最新の教学は、祖師・空海の理論を補強する役目を果たし、東密の教理はより確固たるものとなっていったのである。そんなわけで、真言宗天台宗のように教理解釈を巡って解決すべき問題は、「この時点では」なかったのであるが、政治的な問題はあった。

 それは東寺と高野山金剛峯寺)、2つの道場があったことだ。東寺は根本道場、高野は修禅道場という位置づけであったのだが、空海の死後すぐに両者の間で確執が起こっている。どちらが真言宗の主導権を握るのかで、争いが始まったのだ。これを「本末争い」というが、東寺長者と金剛峯寺座主を兼ねた観賢が、東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺とする「本末制度」を確立し、争いはひとまず収まる。

 高野山はその後、火災で何度か荒廃するが、次第に勢いを盛り返す。特に平安末期からは宗教都市として、そしてまた遊行僧である高野聖の一大拠点として、大いに栄えることになるのである。

 比叡山と違って、高野山は京の政界に介入することはなかった。これは距離的に京から離れていたこと、また代わりに洛中には東寺があったからなのであるが、おかげで俗世から離れた山林仏教の、在るべき姿に近い道場として存続することができたといえる――最も後世になればなるほど、地域の一大勢力として覇を唱えていくことになるのであるが。

 空海よりも最澄の方が、どちらかというと都市仏教に否定的であったのだが、その意思を継ぐべき比叡山が、中央の政治経済にどっぷり漬かっていったのは皮肉であるといえる。過去の記事でも述べたが、鎌倉後期から室町期前期にかけての京の経済は、比叡山が完全に仕切っており、これを「山門経済」と呼んだ。京に数多ある土倉(銭貸し)らの70%は叡山の資本であったのだ。

 東寺も中央政界に近い存在ではあったが、比叡山ほどの経済力は持たなかった。ましてや独自の武力を持ったり、強訴を行ったりなどの行為もしなかった。この差はどこから来るのだろうか?調べても説明している人はいなかった。理由をご存じの方がいたら、ご教示いただければ幸いである。(続く)

 

澁澤龍彦の描いた、幻想的な「高丘親王航海記」。内容は親王が天竺目指して航海に乗り出してからの話なので、史実とは関係ない。この小説のモチーフは「夢」なので、作中では次第に現実と夢の境目があやふやになっていくが、だからといって内容が意味不明だったり、難解なわけではない。語彙や表現が豊かだから、読んでいると情景が鮮やかに目の前に浮かび上ってくるのだが、ストーリーも同じように明快で鮮やかである。ブログ主の好きな筒井康隆の幻想系小説っぽいところがあると思ったが、これは逆で筒井が影響を受けているのだろう。そういえば、筒井も夢がテーマの作品が多い。作中で澁澤は親王を「求法の人」というよりは、「天竺に行く」こと自体に憧れている人、として描いているが、当たらずとも遠からずのような気がする。物語は親王の死で終わるのだが、その最期がまたいいのである。

 

近藤ようこ氏によって、漫画化もされている。独特な世界観をどう表現するのかと思って読んでみたら、案外あっさり描いていた。だが決して力量不足で表現できていないわけではない。近藤氏も独特の間合いを持つ漫画家であるが、それが原作の明るい感じととてもマッチしているのである。