根来戦記の世界

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中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑨ 「南都六宗」に、果敢に戦いを挑んだ最澄

 徳一の著した「仏性抄」は法相宗の立場、つまり前記事で紹介した「三乗説」を唱える立場で書かれた書物である。この書は現存していないので、その正確な内容は分からないのだが、どうもこの中で徳一は「一乗の教えを説く『法華経』を、文字通りに受け取ってはいけない」と述べたようである。

 要するに、仏陀法華経の教えを諭していた時、その場にいた多くの人は、前記事でいうところの「不定性」の人々であったため、彼らを仏陀への道へ誘導するために、分かりやすく「方便として」一乗の教えを説いた、というロジックを展開したのである。

 これに激しく嚙みついたのが最澄であった。彼が反論するために著した書が「照権実鏡」であるが、この書の冒頭には、いきなりこうした旨のことが書かれている――「かの悪い坊主(※徳一のこと)は『法華経』を貶める様々な説を唱え、寝ても起きてもこれを謗ること甚だしい。必ずや悪い最期を遂げるだろう。彼のその苦を抜いてやるために『照権実鏡』を著してやった。願わくは、中道の人にとって天鼓となり、下愚の人にとって毒鼓とならんことを、云々」

 いきなり凄い喧嘩腰である。何故、最澄はここまで激しく徳一に反応したのだろうか?

 最澄がこの「照権実鏡」を著したのは817年、東国へと訪問した際である。訪問先のひとつは道忠という僧が率いていた教団であった。この道忠、鑑真その人に直接教えを受けた律宗の僧であったのだが、最澄のよき理解者であり盟友でもあった。最澄天台宗の教義確立のため、経典の写経依頼を各方面にお願いしたのだが、それに最も助力してくれたのが彼だったのである。

 実のところ新興宗教であった天台宗には、優秀な人材が不足していた。教団を立ち上げたばかりだったので、人材がまだ育っていなかったのである。また最澄は朝廷に働きかけ、天台宗から毎年2名の年分度者制という、公的なお墨付きを得た出家僧を輩出させる権利を有していたものの、その半分以上は他宗、特に法相宗へと鞍替えしてしまう有様であった。

 そこで他教団から優秀な人材をスカウトしてくるわけだが、天台宗創世期に最澄の弟子となった多くの僧は、この道忠の教団出身者が多かったのである。道忠自身は、最澄のこの東国訪問時には既に死亡していたのだが、教団そのものはまだ存続していた。そして弟子らが移籍したとはいえ、双方の教団の関係は大変良好だったのである。その証左に、最澄は道忠教団出身者であった弟子、円澄・円仁・徳円らを、里帰りの意味でこの旅に同行させている。

 この頃、最澄は行き詰まっていた。天台密教を確立せんとする努力も、空海の経典借用拒絶により先に進めなくなってしまい、また最も可愛がっていた第一の弟子であった泰範まで、空海の下へと出奔してしまった。また先に少し触れたように、天台僧の年分度者のほぼ半分が、法相宗へ鞍替えする時期が続いていた。

 そんなタイミングで、旅先の彼が目にしたのが、徳一の「仏性抄」であったのだ。この書は法華経の内容を、ひいては東国における布教のライバルであった道忠教団の教えを、けん制する目的で書かれたものであり、別に天台宗を念頭に置いて記されたものではなかっただろう。しかし法華経天台宗が最も重視する根本経典であったから、最澄としては見過ごせる問題ではなかった。そしてタイミング悪く、こうした心理状態にいた最澄が強く反応してしまった、というのが真相のようである。

 最澄は徳一の著した別の書にも、同じ調子で噛みついている。彼の罵詈雑言は、回を追うごとに激しくなっている。「仏法を謗る者が信じる、浅くて狭い法相教」だの、「謗法を広めることによって、後学を阿鼻地獄に引きずり落そうとしている」だの、「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車の轅(ながえ)を北に向ける方向音痴)」など、実にバリエーション豊かである。一方、徳一はどうだったかというと、これに関する彼の著作は現存していないから分からないのだが、最澄の調子が段々とヒートアップしていることから、おそらく同程度には罵り合いをしていたものと思われる。

 肝心の論争の中身だが、互いの教義に関するいわゆる教相批判なので、経典に対する基礎知識がないと理解できない難解なものだ。だが、基本的には水掛け論で終わったようである。互いに反論する形で出した著作は、徳一が6冊、最澄が7冊であるが、互いの論拠としている経典の解釈について「お前は違う、此方が正しい」という論争をひたすら行っている。この論争は、最澄が死ぬ前年の821年まで、足掛け5年に渡って繰り広げられ、最澄はこれに多大なエネルギーをつぎ込んだのであった。

 

磐梯町磐梯山慧日寺資料館蔵「徳一座像」。徳一の著作はひとつを除いてすべて失われてしまっている。にも関わらず、彼の書いた内容がある程度類推できるのは、最澄がその著作の中で、逐一引用して反論しているからである。最澄の論敵であった関係で、天台宗の僧からは蛇蝎のごとく嫌われている彼であるが、実際には優れた見識を持つ、南都六宗を代表する学僧であった。平安期の僧の二大巨頭は空海最澄の2人で間違いないが、それに続く「第三の男」といってもいいだろう。彼の書いた唯一残された著作が「真言宗未決文」であるが、実はこれは空海が徳一に送った写経依頼の手紙(先の記事で紹介した、徳一を褒めた文面はこのときのもの)に対する返事なのである。この中で徳一は、密教に対する11の疑問を空海に問うているのだが、手紙の最後に「ここで見せた11の疑問は、おそらくは誹謗の業となり、私はその報いを受けて無間地獄に落ちるかもしれない。だが私には他意はなく、ただその教えを学ぶことを欲しているだけなのである。なので同じ仏法を学ぶ全ての人は、私がここに挙げた疑問によって、真言宗を嫌い軽んじることがないことを望む」などと、殊勝なことを書いている。このように最澄に対するものと違い、空海に対してはあくまで丁寧な態度を崩していない。なおこの手紙に対して、空海は敢えて直接反論はしなかったようだ。空海のこうしたところは「対人スキルが巧み」というレベルではなく、その巨大な器で反論ごと飲み込んでしまうような、懐の深さがある。

 

 晩年の最澄は、もうひとつ大きな論争を挑んでいる。それは「大乗戒」を巡る問題である。当時の僧が正式に出家するためには、東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺の3つの寺いずれかで受戒する必要があった。この三寺を合わせて「天下三戒檀」と呼ぶが、最澄はこのシステムに異を唱えたのであった。

 そもそもこの「天下三戒檀」で施されるこの戒律は、「四分律」という部派仏教系、要するに小乗仏教の法蔵部の流れを汲むものであるから、大乗仏教にはそぐわない。大乗の教えを受ける者は、大乗独自の戒律に則って受戒すべきで、それは比叡山延暦寺こそが相応しい――というのが、最澄の主張なのである。最澄自身も東大寺で受戒していたわけであるが、なんと彼はこの戒律を返上するという行動に出た上で、朝廷に対して上奏したのであった。

 「大乗仏教だから大乗戒」。実はインド以来、こうした主張をした僧はおらず、おそらく世界初の画期的な出来事なのである。これまでは大乗であっても、出家する際には原始仏教以来の、やたら厳しく非現実的な戒律を守るのが普通であった。従来の戒では250にも及ぶ細かい規定があったのだが(守られているかどうかは別)、最澄はそこまでのものは必要なく、どちらかというと在家向けの性格が強い、緩い戒律である「梵網戒」でよし、としたのである。現実に即した対応ともいえる。(だからといって、楽になったわけではない。その代わり最澄は、天台宗の年分度者になる修行僧には、比叡山にて12年間修業をすることを課した。)

 いずれにしても既得権益を侵す最澄のこの行動に、南都六宗サイドは当然反発する。強い抵抗にあった最澄の「大乗戒」構想は、彼の生前には実現せず、彼の死後7日後に実現することになるのだ。

 最澄はこのように既存の仏教勢力である南都六宗に対して、果敢に戦いを挑んでいる。若いころ、南都六宗の腐敗を嫌って比叡山に籠ったことのある最澄だが、このように年を経ても、妥協を許せない実直な人柄は変節しなかったのだろう。しかしこうした戦いにエネルギーを費やしてしまったこともあり、彼は結局、新しい天台宗の思想体系を完成させることはできなかった。彼が残した課題は、次の世代である彼の後継者たちへと継承されることになるのだ。(続く)