空海により日本にもたらされた密教の教え。空海はそれに独自の解釈を加え、更に発展させる。彼が打ち立てた真言の理論は、天才が収集・編纂した故に、それ以上の解釈や発展がなかなか進まなかった、と言われているほどである。彼の先進性を示す一端として、「十住心論(じゅうじゅうしんろん)」の障りの部分だけ紹介してみよう。
正確には「秘密曼荼羅十住心論」というこの著作は、そもそもは淳和天皇が各宗派の第一人者に「それぞれの教義を記して提出せよ」と下した命に応え、空海自らが著して提出したものだ。
この著作で空海は、仏教における密教の立ち位置を素人でも分かるように定義している。その定義を表にしたのが、下記の画像である。
この表で見えてくる空海の言いたいことは、つまりこういうことである――人は誰でも仏になれる可能性を秘めているが、表にある通り、最高位である大日如来の境地に辿りつけるのは、唯ひとつ密教の教えのみである。しかしながら他の教えも(程度によるが)、それぞれ真理に近いところにはいるのだ。そういう意味では既存の仏教の各宗派の教えは(仏教ではない儒教や道教、ヒンズー教でさえも)、間違っているわけではない。それどころか、なかなか良いものであるとさえいえる。しかるべき段階に来たら、最終的に密教に辿り着けばいいのだ――
つまり、これまで日本の仏教界を牛耳っていた「南都六宗」を否定していないのである。それどころか、逆にそれを内部に取り込んでしまっているのだ。
このように、他宗の教えを自らのうちに取り込む、または混交していることを「シンクレティズム」と呼ぶ。広い意味では「神仏習合」もそれであり、この時期に発展しつつあった「修験道」もそうした性格を持つ。しかしここまで丁寧に理論立てて整理し、体系の中にカッチリ取り込んでしまったところに、彼の偉大さがある。
この理論はまた、敵を作らないやり方でもあった。この時点で、密教は日本に来たばかりの新興宗教であり、既存の宗教勢力から敵視されてもおかしくない。にもかかわらず、空海の東密は南都六宗と盛んに交流を行っている。この考え方によると、密教に至るまでの前9段の教えは否定されるべきものではなく、「密教的真理の段階的な現れ」として捉えられるからだ。密教の教えは、このように既存の南都六宗との境界線が緩かったから、両者の関係性は決して悪いものではなかったようである。
空海は処世術にも、巧みな印象がある。空海は高野山を、最澄は比叡山をそれぞれ開山している。これまでの南都六宗は都市に拠点を置く「都市仏教」であったのだが、両山の開山によって俗世から離れた「山林仏教」への道が開けたわけである。しかし空海は最澄と違って、都市仏教を排撃するような姿勢を取らなかった。事実、真言密教の総本山は京にある東寺であり、高野山はあくまでもその末寺、という位置づけであったのである。
見方によっては狷介ともいえる、空海の世俗権力や既存の宗教勢力との妥協融合の巧みさであるが、先述した通り、彼の行動は広大な理論体系に裏付けられているのである。いろいろな意味で、空海は日本人離れしたスケールの大きな思想家であった。(続く)