根来戦記の世界

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中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑤ 目指すところは「スーパーマン」 密教の教えとは

 密教はインドにおいて発生した、仏教の一派である。初期の密教は呪術的な要素が多く入っており、極めて土俗的な性格が強いものであった。こうした初期密教を「雑密」と呼ぶ。例えば、初期に成立した「孔雀王呪経」は毒蛇除けの護身呪であり、おまじないに近いものだった。

 だがその後、インドでは後発のヒンズー教が急速に力をつけてくる。これに対抗する必要上、密教の理論化が進んだため、洗練された教義に生まれ変わった。これが中期密教である。

 唐が西域まで進出したことにより、8世紀前半にインドから中国に入ってきたのが、この中期密教であった。伝えられたのは、主に「大日経」と「金剛頂経」の2つの経典であるが、この2つは中国においては、別のグループによって確立され、それぞれ胎蔵部・金剛界部と称された。この2系統の密教を統合したのが、空海の師であった青龍寺の恵果である。

 本場のインドや中国においては、この後、密教は廃れてしまうわけだから、中期の密教では恵果から伝法を授かった空海こそが、この世に唯一残された正統な系統、ということになる。(なお後期密教チベットに伝えられ、そこで発展した)

 さて肝心の密教の教えというか教義であるが、畏れを知らないブログ主が理解したところを、拙いながらも述べてみようと思う。明らかな間違いや事実誤認があったら、コメント欄にでもご教示いただけると幸いである。

 まず密教は「仏に成るには、どうしたら良いか」を実践目的とする宗派だと言える。その究極の目的は、生きたまま仏になること。これを「即身成仏」と呼ぶ。ここでいう「仏」とは、人が到達しうる最高の状態を指す。密教でいうところの最高の状態とは「神秘の力を纏い、大宇宙大生命体(=大日如来)と一体となる」ことを意味する。

 従来の仏教の教えは、現世を否定する方向にあった。それ故に「無我・空」、つまりは「生死煩悩を解脱して、覚りに達する」ことを目指していた。これとは逆に密教では、現世を肯定する方向にある。

 これまでの教えとは真逆のベクトルなのであり、そこが革命的だったのである。つまり人間の可能性をどこまでも信じ切るのが、密教の教えだと言ってもいい。

 では人が仏になるには、具体的にはどうしたらよいのだろうか?

 仏になるとは、つまり悟りを得ることだ。それには、仏を実感することが大事である。仏を実感するために一番いいのは、拝んで瞑想すること。拝むことで、自分の中にある仏という可能性が膨らむのだ。

 だが、ただ拝むのではダメなのである。正しい教義を理解したうえで、正しい所作をもって行うことが大事で、そこを守らないと意味がないのである。正しい教義、これを「教学」という。正しい所作、これを「修法」という。この2つは両輪の車で、どちらかが欠けても両立しないのである。この2つをきちんとした上で瞑想して、初めて意味を成すのである。(より正確に言うと、行軌により仏の印契を結ぶ「身密」、仏の真言を唱える「語密」、心に本尊を念ずる「意密」、この3つを「三密」といい、これが揃っていないとダメなのである。)

 密教真言には、凄い力がある。なにしろ仏になれるくらいの力があるのだ。だから雨を降らせたり、敵に仏罰を与えたり、疫病の流行を収めたり、などの超常現象を起こすこともお茶の子さいさいである。これがいわゆる「加持祈祷」である。

 密教の加持祈祷は、これまでのいわゆる原始的な「神頼み」とは決定的に違う。これまでの加持祈祷は「無力な人間が、神仏の慈悲にすがる」という図式であった。しかし真言の加持祈祷は、「自らが真理と融合して仏となり、その力を以て衆生を救済する」のである。

 加持祈祷する自身が仏、つまりスーパーマンと化して奇跡を行うのだ。密教の考え方では、神仏はもはや人が畏怖する対象ではなくなっている。自らがそれに比する、或いは超える存在になるわけだから、畏れる必要がないのだ。これまでの神仏と人間の関係性が、劇的に変わっているのである。まとめると、真言の寺に課された役割は主に2つあるといえる。

 

・自分が「即身成仏」となって、弟子をそこへ導く

・その力を以て、国や人々を守る「鎮護国家

 

 つまりはとことん現世利益を追求した宗派、といえる。「現世での望みを叶えてくれる」という、この最新の教えをひっさげて登場した空海を、当時の日本の支配者層は熱狂的に迎えたのであった。

 

弘法大師こと空海像。日本史上に燦然とその名を遺す天才である。全国津々浦々の温泉を独鈷所で掘り当てた、究極の温泉マニアでもある。北から南まで、その数は分かっているだけで数百に及ぶのだ(健脚!)。日本各地の人々を喜ばせたわけで、流石は現世利益を追求した真言宗の開祖のことだけはある。

 

 京に帰った後の空海は、水を得た魚のように精力的な活動を行う。国家の要請に応え、大祈祷会を開催し「鎮護国家」を行いつつ、数多くの後進を育て弟子たちを「即身成仏」へと導いた。その上で、唐より持ち帰った密教の教義を更に発展させ、独自の理論を打ち立てていく。

 817年には高野山の創建に着手、823年には官寺であった東寺を賜る。以降、東寺は密教の専修道場となり、空海密教は「東密」と称されるようになるのだ。(続く)